『そう! だからこれから・・・ そうなっていくことは間違いないんです! どうです? 皆さんも分かったでしょう? これ以外に道は無いんです!』
自信に満ち溢れたスピーチが締めくくられるや否や、場内は、聴衆の大歓声に包まれる。中には、立ちあがって拍手を送っている者もいた。
周りに合わせて一応の拍手を送りながら、私は、話者のスピーチに言いようのない違和感を覚えていた。
「話が断定的すぎる・・・。どうしてそこまで確信が持てるのだろうか・・・」
話者の口調に、一切のためらい、自己の主張に対するわずかな懐疑も含まれていないことに、私は驚いた。
もちろん、自己の主張に自信を持っているのは良いことだ。スピーチも、そのように自信満々に行った方が効果的であるということは一応、知ってはいる。
ただ、どんなに自己の論に自信があろうが、神様でもない限り、そこにはわずかの懐疑が残っていてしかるべきだと思うのに、そういったものが一切感じられないのは、人間が何かを語る姿としては、どうも不自然だなというような印象しか受けない。
何故、
「おそらく、こうなるかもしれない。もちろん、そうでない可能性も残るが・・・。」
「私にはそこまでは分からない」
「確信は持てないのだが・・・」
という文言が、一度たりとも飛び出さないのだろう。
スピーチの有効性を高めるため、自身の内部にある懐疑、戸惑いを、不自然に押し込めてはいないだろうか。
そしてまた、そんな姿に大変な感銘を受けているらしい周りの聴衆に対しても、私は、これでもかというほどの恐怖を覚えた。
話者から戸惑いというものが一切感じられない、という不自然を、この聴衆たちは何とも思っていないのだろうか・・・。