「一体全体、安定なんか得てどうするんだ」
と他人を問い詰めることは簡単です。しかしながら、では翻ってみて自分は過去、
「安定という強烈な誘惑」
から自由になることが出来ていたのかと言えば、全くそうではなかったと言えるでしょう。
今でこそ、
「やりたいと思っていることに向かわず、やりたくないけど安定している方を選択するのは、一見楽に見えて、精神的にはその実しんどいのだ」
「安定しようが不安定だろうが、どちらにせよいずれ死ぬんじゃないか。ならば一体お前は誰に遠慮しているんだ?」
と自分に言い聞かせることによって、いくらか、
「安定へと惹かれていく気持ち」
を弱めることが出来るようになりましたが、以前の私はそれこそ、安定という誘惑に引き寄せられ、
「安定」
をとにかく人生の第一に据えていたのです。そして自分の満足・楽しさは脇に追いやっていたのです。
ですから、
「とにかく何よりも安定だ」
と言っている人を馬鹿にすることなど、私には出来ませんし、
「安定へと惹かれていく気持ち」
が強い人が居たからといって、それは別に悪い事でも何でもないと思っています。それだけ引力が強烈なのですから。
しかし、そうはいっても何故、安定した先にあるむなしさを経験として知っていながら、自分の欲望は脇に追いやって、あれだけの強さでもって「安定」へと引きつけられるのでしょう。端的に言えば、それは、
「死から遠ざかりたい」
が故だということになるのでしょうか。「安定」が無いとはすなわち、「死」が身近に迫っているということだと。それは避けたいと。
確かに、
「死から遠ざかる」
ことが出来れば、「安定」というものは素晴らしいものだと言えるでしょう。ただし、「死からだけ」遠ざかることが出来ればの話ですが・・・。
つまり、「安定」というものは、なるほど確かに「死」から我々を多少なりとも遠ざけてくれるでしょうが、「死」を遠ざけてしまえば同時に「生」をも遠ざけてしまうことになるのです。何故なら、生と死は表裏一体だからです。「死」だけ遠ざけておいて、「生」を遠ざけることを避けることは出来ません。故に「安定」は言いようのない「むなしさ」を誘うのだと思います。
また、だからといって、ことさら「死」を身近に近づけて、「生」の実感を得ようとするのは逆に危ないということは、以前に『頭の中で遊べれば・・・』の中で書きました。
そうすると、「安定という強烈な誘惑」を振り払いながら、かといって極端に走らないために、私がやっていくことは何か。それは、
「自らの声を無視しない」
ということと、
「生と死をことさらに分けて考えない」
ということを意識することの二つかもしれません。