<472>「呼吸がにやにやする」

 出口は様々に拡がっているが、それらを部分的に(しかし幅広い範囲に亘って)固めていく。何故かは分からないが、固く埋められた部分は、その固さ自体もさらに増していくように出来ているらしい。そうか、すると、徐々に動きが制限されていくということだが、気づいたときには、通常の6~7割ぐらいの動き方が既に始まってしまっていて、どうすることも出来ない。

 そこで、煮えたぎる内側へと、一旦降っていくことを決めた後は、ぶつぶついう騒音を耳に収めながら、ひたすら固まっていくものどもをじいっと下から眺める日々が続くのだ。これら固さが、いつかまとまりになってぼろっと落ちることが分かる(そういう固さとして最初から現れているのだ)。それだからして、この制限を呑気に内側で、茹で上がりながら眺めているのだろうが、さて、全体が動きになる予感とともにあるその喜びは、妄想の域を超えないのだろうか。私には、呼吸が、にやにやとした笑いをも届けているように感じられるのだった。

<471>「地面につく」

 ひどくぼんやりしたがって、その場に釘づけにされているように見えるが、何かが去るのを待っていたり、また、何かに耐えているのでないことは分かる。鈍重な動きを申し渡されたように、その場で深く沈みこんでいる。尤も、それは不本意ではあるのだが、動作が殺がれる不可思議な空間を、ちょうどここで眺めていると、どうやら、ある別の瞬間には、この苦痛らしい苦痛も上手く思い浮かべることが出来なくなっているだろうことに気づき、それに苦笑を添えるべきか否かも分からない・・・。

 おかしな状態には当然ながらおかしな考えがあり、そんなものは取り払うべきであるのだが、いかんせん身体の動きが鈍い、というより、止まることとの親密度が増しているとでも言った方がいいだろうか。この場をいつまでもいつまでも動きたくないというメッセージは、錯乱した快感として、慎重に、はたまた不意をついて訪れてくる。

<470>「断続、はつ」

 これが、今ここで示される景色なら、叫びたい分だけをきっちりと叫ぶがいい。順次ズレていくことで起きる運動は、あなたを忘れない。

 ならば、この部屋で、あなたがもう一度、警戒そのものになるのだ。見ているもののことばかりを、徒に考えなくたっていい。疲労の意味を解体する夜は、物憂さの名残りをゆっくりと流す。

 そうだ、夢ごと見ている場所は、ひとつの健康を標榜する。情けなさも、歩みの前では、ほんの僅かな戯れに過ぎず、空気も、山も、順調な通過のことだけを考えている。

 非常な、非常な、非常なものを慰める場として、この呼吸が、縦横に奔走し、温め合うこととて、発見を重要視していない。それが分かるのなら、意図的に道を分けていくといい。

 停止、また、再開。それは、私が次々の音を聴くからなのだろうか。はて、それは、無音の激しさとなって全身を揺すぶっている。もっとももともとの揺れであればこそ、いつもこの通り、提案は一切を笑われる。

<469>「ただの脈つき」

 嘘は嘘として、本当は本当として、この、動いていないとしか思えないもの、静かに沈黙しているとしか思えないものの、大きな震動を、ひとつの手に余るほどに感じていたい。大がかりな鳴き声は、大袈裟な動きそのものは、執拗な前進は、確かめる術もない。ただ、そのものが、あるとき、明らかに場所を移してしまっていることは知れる。どうだ、動いているなんて思いもしなかったろう? そんなケチなセリフ、思いついていやしないのだ。とっても快活に笑いたくなったから、ああ、動いているとは何ということなのでしょう、と、大きな声で笑ってみた。

 特別視を知らない運動に、無視や、無関心といったものは最初っから入っていない。入ってきようがない。ただのもぞもぞ、関心という言葉では括れない脈動を、もとのもとの景色として憶えていたい。また、今でもそうであるはずのものを、忘れないでいたい。

<468>「朝の暗さ」

 毎日変わらずのその照明が、その動きの数だけ人の不信を集めるのだったら、私は、ホウっとしてそのまま見ていることにしよう。幸い、私の方であなたの方で、見慣れた暗さを相手にしようというつもりはなかったようで、そこで安心しているのなら、そのままこちらにおいで、と、言いたい気がした。

 そのまま、暖かさには、なれないかもしれませんが、そこから歩いて帰る分だけでも、全体的に、緩やかに、柔らかく、瞳の存在を、曖昧にぼかすことだけはしてみようと思い、また、思えば出来ることなのでした・・・。

 冗談なら、こんなに明るく、ここまで幅広い必要もないかもしれないのだが、それでは、やがて、朝一番の暗さのなかに何をか見出し、捨てて、トボトボ歩いていくことがなおも許されるのだとしたらば、透明な声を、全身に確かめてみてもいいのだろう。もはや、回転の意味を告げるための鳴き声だとは受け取らない。準備も、運動も皆、ひとつの場所に収まっている・・・。

<467>「泥のなかの静けさ」

 次々と、泥にはねられて行く人々よ。私はあの歩みを見ている。特別な感慨が必要になった訳ではないのだが、時間の積み重ねが、ただの穴になるように、慎重に見ている。

 ただ歩むこと。そこに、感激も切なさもないこと。ぼんやり眺めていると、次の瞬間には、後ろ姿になっていること。そこに一切がある、物凄さがある。

 放心の前後に、放心などまるで関係がないような顔を用意しておく。すると、痕跡は残るにせよ、何事もなかったのだと言わんばかりの歩みが、いつの間にか始められているのを見ることになるだろう。

 否定的な意味内容とは関係のないところで、何も感じない瞬間を読み取り、また、それそのものになればいい。確かに存在を確かめたが、だからといって何かをする訳ではない。それは、当たり前のことではないだろうか。

<466>「善悪ではない」

 大して悪くもないが、当然良くもないという状態に置かれる。置かれるというより、そういうものが存在だと確認することは難しいことなのだろうか。いや、それ自体は別に難しいことでも何でもない。そんなに良くもないが悪くもない、そんなもんだということはすぐに分かる。では何が難しいのか、何処に困難があるのか。それは、その中心が揺れているというところにある。その事実を確認することではなく、その事実の上に立ち続けることに困難があるのだ。

 良い方も、悪い方も、

「ほら、ほら、こっちへ傾け!」

と、執拗に囁き、また、ひっぱり続けてくる。その誘惑に乗っかって、とりあえずどちらかに傾いておくと、フラフラしていた足場が、傾いた先で安定するのでホッとする。ホッとするという事実をごまかすことは出来ない。自分を、良いと思ったり悪いと思ったりするのは簡単で楽だ。しかし、安心しているその頭脳の傍らで、どうしようもなくこういう音が鳴っている。

「違う、あなたの中心はそこではない」

フラフラしていて不安定なその場所こそが中心だと。褒められるほど良くもなければ、延々と罵倒され続けるほど悪くもないという、そのどっちにも行けない場所こそが中心なのだと。自分を良いように言ってみたり、悪いように言ってみたりするのは全てごまかしに過ぎないのだと。