<187>「恣意的」

 それを失ったら終わりだ、というようなものを失って、平気でいるのとそこでは決まっていた。真面目さが順序を解体するという話が私にはよく分かる。建築物には何かの無理がある。何かの図を作る、するとそれに規定される。そんなことは窮屈だと言うよりほかない。めちゃめちゃに拡がって、何も確かめ得ないで、平気でいるようなことは無理だと思うのは、実際にそうなってみないからだ。実に大したことではない。困惑の度は強まるが、強まるなら強まればいい。

<186>「私は覆えない」

 判断することには、覆ったと勘違いする危険が含まれている。いや、判断すること即ち、勝手に覆ってみせることなのかもしれないが。これは不可解なことかもしれないが、誰かのことを私は全面的に掴む。しかし、その人の全体を掴む訳ではない。であるから、私の取るべき態度は、自分がどうしても全面的に掴んでしまっているものを感じながら、決して判断は行わず、その人の茫漠たる全体に、静かに執拗に潜っていく、というものになる。

 あるときは有用性の側面から(つまり、この人はもう現代では役に立たないだとか)、あるときは勝手な興味の喪失から、あるときはその人に優ったという意識から(もはや、私にはこの人から教えられることはない)、勝手に判断を下して、何となく片がついたような気持ちになる(所詮この程度さ・・・)。しかし、どんな人であれ、人ひとりの規模というのはそんな小さなものではない。誰であれ完全に覆い切れることなどない。片がついたと勝手に思っていると、必ず後で不意打ちを食らう。

<185>「好奇心と問題」

 高尚な話題、規模の大きい話題に関心を持っているときに忘れがちになるのが、それがとても楽しいと感じられているから参加できているという事実だ。どんなにか過酷な、悲惨な現実に向かっているときでさえ、楽しさは裏にびっしりとくっついている(楽しさで抵抗があれば、興味深さでも何でもいいのだが)。しかしそのことには、そこに対する興味が外れてからでなければ気がつけない。例えば、あまりに確率が低いために、今の今まで一度も事故や事件に出会わなかったが、そこから、出会わなかったのは自分がちゃんとしていたからだ(出会った人は皆、どこかちゃんとしていなかったのだ)と考え出したくなる誘惑にはなかなか抗し難く、実際に、どうしても避けられなかった事故などに遭ってみて、ああ、ちゃんとしているとかしていないとかはあまり関係が無いこともあるのだと気がつけるまで、そう考えたくなる誘惑はなかなか去ってくれるものではないのと同じように。

 興味を持て、あるいは、このことには多くの人が関心を持っているのが理想的で、そうでない現状はマズい、というような捉え方をいくらしようが、おそらく何の関心も引き出してくることは出来ない。物事が悲惨であろうがそうでなかろうが、どうしてもその人がどこかに楽しさ(興味深さ)を自分から見出せなければ、興味を持つことなど出来ない。であるから、大事な問題(と一般的にされている)に全く関心のない人がいても、私は何らの批難をも加えることが出来ない。自分だって、どこかに楽しさがなければこの問題になど入っていけはしなかったことをよく知っているからだ。

<184>「私は納得ずくでこの道の上を」

 自分と似たものが出来上がれば、延長が分かりやすいのか。恐怖としての欲望、つまり怖ろしいまでに同じものを望んでいる。私がここで続いていくという幻想を保持しやすい。教育の運動というのは、開いていくと同時に閉じていく。同化していくことを望む場合と、半ば力強く引っ張ってくる場合と、動きの流れる方向自体は同じだが、さて・・・。その人の身になっていく、埋没していく、それが義務であることはつまらないと感じる。ここで、つまらないと感じているとき、何かを感じ損ねている? 望まずに潜っていくことが怖ろしいと。では何故、望んでいる場合は大丈夫なのだろう? そして事実、それによって拡がりもするのだろう・・・?

<183>「ドアの開けざま」

 教育欲というようなものの現れを見ると、いつも、う~んと思ってしまう。それは自分にもある類のものであるから尚更だ。つまり、自制すべきものなのではないか。こういうことを考えている、疑問に思い続けているが、上手く響いて行かない、というイライラは分かるし、私にはその人の話がよく響くだけに、同じようにもどかしくもなるのだが、そこから、

「じゃあもう、今いる人たちは仕方ない。これからの将来を担う子どもたちを教育しよう」

というところへ話が繋がっていくことには反対だ。それは、今いる大人たちを否定しているからではない(それも良くないことではあると思うが)。そこから、まだ何もよく分かっていない子ども(つまり一番与しやすい対象)を、自分の理想通りの型に作り上げていこうというグロテスクな欲望、暗い欲望を感じるからだ。たとい、そんなつもりはないと言おうとも、無自覚であればこの暗さは解消される訳ではない。

 すると私は、教え導こうという姿勢そのもの、そんなことをするのは当たり前だと考えられているもの全体に対する反発を感じているのかもしれない。もちろん、子どもへの教育が全く放棄されていいと考えている訳ではない。ではどうするか。手持ちのものを全部提示して(何ものも隠さず)、そこから後は、当人の学習意欲にただ任せておくほかはない、つまり、子どもの意欲を挫かないように気をつけて、惜しみなく開いていればそれで充分だしまた、それ以上入って行くべきではないと考えている。自分の言っていることが響いていかないことに納得がいかないから、子どもに狙いをつけてどんどんと考えを吹き込んでいこうというのは、いかにその内容が美しく見えても、やはり危険なことなのではないだろうか。もどかしくても、考えを述べる側は純粋に考えを述べるにとどまり、響くか否かは完全に受け取り手に任せなければいけないのではないか。

<182>「えい」

 嫌な陶酔、嫌な酩酊というのはやはりあって、それは酒を飲んでいるときを考えれば一発なのだろうけれど、酒以外でもそうだ。自己批判にしたって(勿論他者批判もそうだ)、正義感の発露にしたって、必ず酔いというものが伴っていて、それを感じて後悔するからなるべくやりたくないのだけれども、時々説明したくなる。酔えるということを知っていて動き始めてしまう場合なんかは特に悪い。

 陶酔はそういった邪なものではなく、純粋なものでなければいけない。つまりそれを得ようとして何か動きを為すのではなく(それをすると嫌な酔いになる)、思いがけず、気を抜いているところへふっと訪れる陶酔でなければ。訪れるものを待つものだ、というのはそういうことなのだろう。よって、陶酔状態に予期しないタイミングで入っても大丈夫なように準備だけしておくこと。積極的に引っ張ってこようとしたり、やたらに飲んだりはしない。意外にも、吹く風の温度が丁度良かったという。

<181>「自己批判、」

 自己批判が目的ではなく手段になっていることがほとんだと感じる。つまり厳しい目を向けているのではなく、他人を黙らせる為、介入させない為に、自己批判を手段として持ち出している。黙らせたいときは、相手に直接、

「黙れ」

と言ったり、何かを説いたりするよりも、自己批判を繰り広げる方が効果的であることを、これでもかというほどよく知っているのである。

 手段になっていようが目的になっていようが、批判をしているのならそれでいいではないか、いや、他人を黙らす目的で、自己批判を手段として持ち出すときには、ダメージなんか全くもって負わない。何もきつくない。ひとつそこに挟まっているから何ともないのだ。純粋に目的として自己批判を繰り広げるのは大変だ。というより、そんなことを為し遂げた記憶が一度もない。いつも手段だ。それも目的にしようと思っても、どこかで目的は他のものに入れ替わっていて、気づいてか気づかずしてか、揚々と手段としての自己批判をし、何かを成したような気になっている。