<120>「身振りを見てしまう」

 動揺する、それは確信の身振りであり、確信の内容ではない。他者にしか見られないことにも驚くし、他者にその身振りが見えていることにも驚く、つまり確信の身振りを意図することも出来れば、勝手に読み取ることも出来るといった具合、内容がないのだぞと説明してもそれは仕方ない。泣いて縋りたいぐらいの強さを持ち(実際にそのように動くイメージはあまり浮かばないが、そんなものは動いてみなければ分からない)、それは風景へと押しやる作業、つまり持ち上げているのでも下げているのでもなく、ぐいと奥に押し込んでいく作業、そうして自身を浮き立たせる。しかし驚きたいからそうするのではなくやはり驚かされているのだ、であればやはり自然な働きかけ、それは相手から来るのか私から行くのか、そのどちらでもあるのかは定かではないその身振りをとにかく見てしまう、それが意図されたものでなく結局は見誤りであったとしてもまずとにかく見てしまう、そういうことがある。

<119>「ニュアンスがこぼれる」

 何の判断もつかない、何も分からないと言って、何かが浮上してくることを期待していやしないか、まあいい、取りこぼしの問題、別に解決しなければならないものの類であるかどうかは知らないけれども、それ自体曖昧なもので論が進められるもどかしさ、曰く才能、真理・・・。それぞれが違うものを持ち寄り、あるいはこう規定したい、こう規定するのだということが既に背後で決まっていて、当たり前のようにズレながら何でズレてしまっているのかを解決しようともしない、おそらくしたいとも思っていない。目に見えない、誰彼によってその想定しているものが変わってしまうあれやこれやの言葉は、あまり信用しないようにしている。真理の探求、こういうことが堂々と言われる不思議、その真面目さや熱意、論の巧みさなどに感銘を受けることはあっても、どうも馴染めない、その弁証法的方法が悪いからではなく科学的な仕方が悪いからでもなく、真理という何だかよく分からない曖昧なものを探求するというそのスタート地点が悪いから、どうしても結果は何だかよく分からないものにならざるを得ない。方法が巧みであれ、頭脳が明晰であれ、そこで使用されているものは言語だ、つまりは記号だ、完璧に組み立ててそれを現実世界の説明として役立てることは出来ても、その組み上げられた記号の体系それ自体が真理を表し得るはずもない、ニュアンスを取りこぼしているからだ。人物の名に当たるものはその人物の一切を含んでいて、何らの取りこぼしもなくその人物をそこに出現させることが可能になる、と言ったら人は笑うだろうが、そういった取りこぼしを常に行わざるを得ない記号化、つまり言葉にするという作業を通じて、その積み上げの方法さえ整えられれば真理に到達できると無邪気に考える人はいる(既に書いたが、そもそも「真理」とは何だろう、曰くそれはこれこれこういうものである、と言葉で説明する、そこにはまた取りこぼしがある)。

<118>「不決定や美意識の難しさ」

 美意識はその内に排除を含むのではないか、ということを以前書いたが、倫理観にしたところでそうで、極めて倫理的であろうとする努力はどうしても攻撃的なものをその中に宿らせてしまう。こうであらねばならない、こういうことをしていてはいけない、こういった姿勢であるべきだ、それが美しさを含む可能性は否定されないものの、それらが強まれば、当然排除の色が濃厚になってくる。つまり倫理的であろう美意識を磨こう高めようという努力が、そのまま倫理的であることや美意識自体と矛盾してしまう可能性が高いということだ。これは以前書いた「不決定」の問題にも似ていて、決定を容れようとしない、判断を挟まないというのは大事なことかもしれないが、それをしないように努力するというのが既に決定になるので矛盾するという話、同じ構造の問題であるというか、不決定や美意識というのはそのまま同じものである可能性もある(仮にそうでないにしても、それでも互いに重なる部分が少しはあるだろう)。つまり、不決定や美意識というものは、おそらく志向すべきものでありながら、おそろしく意識や意思といったものと相性が悪い、絡み合うと必ず厄介なことになるように出来ているものだということ、志向すべきと思われるのに意識してそれをすることが出来ない、良くあろうという姿勢の矛盾、成就の不可能性、それを感じて、では何をするどうしたらいい・・・という、もうその考え自体が決定に向かっているということ、であるから道徳などもそうだが、教育というものと結びあうことは本来あり得ないことではなかろうか。道徳というものはこういうものである、というのを教えてあげようという「意識」が、既に道徳とは矛盾してしまう。

<117>「焦る時間のこと」

 焦る、それは時間がないという意識からだろうと思われるが(むろん、ここでのそれは、時間というものはないのではないかと直観する、あるいは疑いを持っているという意味での「時間がない」ではない。もしそれを持っていれば、焦りはしないだろう)、それだけでは少し足りなくて、その奥には、

「何かが完成する」

あるいは、

「何かを完成させられるはずだ、させなければ」

という幻想が潜んでいる。人物の完成というこれまた曖昧な、それでいて不可能な想像が、ジリジリとした焦燥を煽る。非実在者との差異を見て、冷やりとする、絶望的な距離に思われるからこそ焦る(そもそも距離自体がないのだが)。何かの為の今、という処理を延命措置以上のものとして評価してはならない。常に、非実在者の顔から眼を逸らさず、額に嫌な汗をかいて、

「まだまだ」

と言っている精神の、その活動が自由な拡がりを見せていく可能性の放棄、焦っているときほど全てが止まってしまっている瞬間もない。

<116>「やることとかではない」

 ただの存在だ、ただの動きだということが強く意識せられるようになってからというもの、意味を見出そうとする問いは、ポジティブなものであれネガティブなものであれ、全てが失敗に終わるよりほかないのではないかという気がしてきている。「一体私は何の為にこの世に・・・」「あの人の生涯は一体なんだったのか」「どうせ死ぬのに何故」「一体全体それをやったからといって、だから何だというのだろう」などなど、何だったのかという意味を問えば、それは当然何でもなかったとなる、ほらやっぱりねとがっくりくるのは、意味の領域では問えないものを無理やりに問うているからである、運動している存在に対して、きっと何か意味があるはずだという形で入るから、どう調べてみても意味というものはなかった、では無意味ということではないか、がっくり、となる、しかし無意味というのは意味というものを想定しなければ出て来ようのないものだ。存在はそんな想定など関係ないところで生成し、消滅し、それを繰り返す、ということは、私は無意味ではないし、そもそも意味でもないのだ。ただ存在するというのはそんなに怖ろしいことなのか、意味や意義から入ってそこに何事かを見出すか、逆方向に動いて無意味に落ち着くかしなければいられない存在なのか(意味の領域に入って判断するというところが全く同じで、方向が違うだけなので、意味だ無意味だという争いには興味が無くなってきている、その領域で存在を判断しようとすることに無理があると思っているので、その領域内での結論がどちらであろうとそんなことはどうでもいい)、ただ動いているものとしてある、というのはそんなに不快なことだろうか、だって見出さなけりゃやることがない(何をやったらいいか分からない・・・)、やることがないのではない、やることとかではないのだ。しかしまあ、ただ存在しているその渦中にありながら、それをそのまま把握し理解することの難しさが尋常一様でないことはよく分かっているつもりではいる、やることがないのならまだいい(見出せばいいのだから)、しかしやることとかではないとは、どういうことだろう・・・。

<115>「死んだような人」

 死んだように映るのではなく、死んだように映すという要請があるということ、つまり、訳も分からず存在してしまっている者が、訳も分からず存在してしまっている仲間を死んだような存在と判定することの訳の分からなさから出発しているのだが、こういうときあるべき正解として駆り出されるのは、イメージだけを集めた完璧な非実在者か、過去の人である(同時代に生きていないから勝手なイメージを与えやすい)。まず、あるべき正解や理想の人物像をググと横に引っ張り出してきて、それに較べてその横に立っているあなたはなんて死んだような、欠けた存在であるかを説くというのがまず笑ってしまうぐらいにおかしいが、非実在者は論外として、理想として掲げられがちな(生き生きとしていたという幻想を勝手に与えられている)過去の人であれ、俗に言う「死んだような状態」を持っていなかったと考えるのは間違いだと思っている、というのも、何とも言えない倦怠、無力感、虚しさ、こういうものは現代に特有の病などではなく、人間という身体のあり方から由来するものだと思っているからである、外界に対して見たときのこの異常な小ささ、遅さ、徐々に壊れるように出来ている身体・・・。

 生き生きとしている瞬間が過去の人にあったことは間違いないであろう、それは否定しない、しかし、そういう瞬間ならば誰にでも、つまり現代の「死んだように」生きていると勝手に判定されがちな人間にも必ずあるのだ。その瞬間を過度に引き伸ばして称賛しているか、見ないようにして徒に批難しているかの違いがあるだけだ。共に生きる者となると、壊れゆく身体に、募る無力感に、あるいは直接触れることが出来、過去の人物や非実在者となると、それに直接触れなくて済むどころか、触れようと思っても触れられないという事情がある。こういう事情を見ると、過去の人に較べて何と現代の人間は「死んだような」存在だろうかと必死に嘲笑し、嘆きたくなる人の気持ちも分かってくる(むろん同意はしない)。つまり、壊れゆく無力な存在であるということをまざまざと他者によって見せつけられることの必死の否定、それが軽蔑となり嘲笑となり批難となり、「まるで死んでいるような」という便利な形容を得るまでに至る。そいつは、生き生きとしている俺とは違って、「まるで死んだような」存在なんだ、そうでないということが分かったら、とてもじゃないが参ってしまう。

<114>「核が定まっていれば」

 こうと決めたらそれに一直線だもんね、そうか、こうと決めたならそれに一直線、そんなことは思ってもみなかった、というより、別段意識してみたこともなかったが、なるほど確かに言われてみればそうなのかもしれない、嬉しかった、大事なところ、核となるところの決断というか決意は譲ったことがなかったのだ、ちゃんとそういうように映っていたし、思ってもみなかったが実際はそうであったことに安心した。というのも、自分というものがまるでなくて、他人といるときも優柔不断で、こうしたいああしたいということがほとんどなくて、どうしてこうもフラフラとしているのだろうと若干気にしていたからなのだが、確かにそれは事実で、しかしそれは、核のところはどうあろうと譲らないという中心があるから、その周辺はどのようであってもいい、どう振舞ってもいいということなのだろうと思えたのだ。一番譲りたくない部分、こうと決めていて揺るがない部分以外は比較的どうでもいいと思っているのだろう、だからそれが定まってさえいれば、どこに行こうが構わない、どこに寄ろうが気にしない。