<4441>「所感(597)」

 生まれてきたことに感謝、や。

 

 ここにある身体自体を寿ぐ。 

 

 何かの不幸がないことを喜ぶ、のような。

 

 生自体が何かのプラスである、何らかのマイナスがないことが幸福である、式の考え方を採用していたんでは、生命活動そのものを掴まえそこねるんじゃないかという気がしている。

 

 生まれ自体に、プラスの意味合いも、マイナスの意味合いも、ない。

 

 人間の底から、活力が突き上げてくる、この体験を、喜びを取り去った境地で掴まえたい。

  

 過ぎた欲望かもしれないが、エネルギーに溢れていることは、喜びではなく、喜び以前に位置し、また、喜びという狭い枠を平気で超え出ているから。

 

 だから、私はエネルギーを讃歌したくない。

 

 エネルギーの横溢が、プラマイの世界にないことを、例えば詩的に上手く書いてみたい。

 

 そういう過ぎた欲望がある。

 

 

 例えば、ある夏の日、太陽が強烈な光で我々を射る。

 

 それに気がついた一瞬、私はそのエネルギーに、賛も否もなく魅入る。

 

 私はただ、身体に溜まった息を、外に流れ出させるだけ。

 

 後にその体験は、私のエネルギーに変換される。

 

 それは、断じて喜びではない。

 

 エネルギーが、形を変えて現れるということ、ただそれだけのことなのだ。

 

 私には嬉しくもなければ悲しくもない一瞬が、日常に光として紛れ込む。

 

 そういう一瞬に、手を伸ばしている。