個体は、世界は、轟音を立てている。
ル・シネマ渋谷宮下にて。
一個体にとって、世界の要素も、出来事も、全てが多すぎる。
個体の流れが、何らかの出来事によって止まるとき、出来事は、個体のなかで氾濫する。
新しい出来事は、出会いではなく、侵襲になる。
流れが完全に止まり、出来事で氾濫した身体に必要なのは、意味を咀嚼し、解体することだ。
経のような、意味を瞬時につかまえられないものの音の並びは、出来事の塊を無化する響きにきこえる。
母の死という、受け容れ方の全く不明な出来事に対し、生に価値はなくただ個体は現実を通過していくだけという、意味の解体を行うことにより、個体の流れを取り戻す。
流れを取り戻した後の映像世界は、空白が多い。要素が少ない。
世界の要素、出来事は、依然として多きに過ぎる。
が人間は、ただそれらを通過させているだけであることが分かると、別に要素が多すぎることは大したことではなくなる。
持っておこう、離さないでおこう、私のところから去らないで、という保持の身体を手放したとき、私は、ただ全ての現象を通過し、通過させるだけの存在となる。
私は流れている、流れている私は、世界に声を掛ける。
おはよう!
私は全てのものを、喜びを、痛みを、苦しみを、安心して通過する。
おはよう!
朝が、私を過ぎっていく。
人間が、全てを通過していく。