「良いお父さんになるのに」
という言葉は、私にとってはいつも、世界の断絶として響く。
本を読んできた人間の偏見なのかもしれないけど、「書かれているものの方が人間の実相に近い」と私も思ってしまう。
— 佐多 祐太郎(1992-2092) (@soudaroune) 2026年8月21日
人に会って良いように誤解される経験が重なりすぎたこともあるかもしれない。
自分の化物性は普段全く漏れ出してすらいないんだな、というか。 https://t.co/yKinchMJHb
文章に実相があると感じている私は、自分の物語がそうではないこと、自分のなかの世界はそうではないことをさんざばら表明しているのだが、そしてときに、それら表明を見たことを周りから聞かされたりもするのだが。
社交の場所、現実での出会いに実相を見ている人々は、そんな話などまるでどこにも存在しなかったかのように、
「あなたは良いお父さんになる」
という言葉を、呪文のように繰り返している。
住んでいる世界が違うということは、人間にとって決定的なことだ。
住んでいる世界はほとんど、信仰そのものに近く。
異なる世界があることを、何らかの能力の欠如から把握できていない訳じゃない。
違う世界が見えていなかったり、そもそもそんな価値観とか世界自体がなかったりする。
だから何回説明しても、同じことを呪文のように繰り返すことは止まない。
無い世界の、価値というものを持ちようのない話、意味のない話を延々繰り返されているようにしか聞こえていないからだ。
だから私がさんざばら説明しても、それがなにかまとまった意味を持つものとして、相手の頭の中に定着することはない。
住む世界が全く異なることに気がついた私は、段々真摯に説明するのをやめて、何か訊かれても言われても、微笑むだけになる。
信仰が違う、魂の置き場が違うってのは、それだけ大変なことなのだ。
住んでいる世界が違うってのは、決定的なことだ。
相手の頭が悪いから、理解力がないから伝わらないのではなかったのだ。
無い世界のことは、想像はできても掴むことはできない。
住んでいる世界が違う、そのシンプルなことだけで、人は人を殺す。
その業からは、人間は絶対に逃れられない。
戦争も未来永劫なくならない。
何故断言できるかというと、住む世界が違うということに対する憎しみには、理屈をつけることが不可能だからだ。
その憎しみには合理性や理由がない。
だから止まない。
こういうことを考えていくにつれ、
「本当の考えとか、本当の想いって、そんなに大事なことなのかなあ」
と思い始めるようになった。
人間って、個人対個人レベルだろうが、国家間レベルだろうが、剥き出しで本音をぶつけ合えば、どちらかを殺さざるをえない場所にいつも立たされてしまう生き物なんじゃないのかな。
だから私は熱い付き合いを警戒する。
向き合うことを警戒する。
微笑んで済ます。
自分と関わりがない範囲では無関心だから寛容だが、ひとたび限定された領域内に私を囲い込もう、関係性のなかに閉じようという動きをされれば、私はその人をその場でボコボコにぶん殴りたくなるくらいには憎しみを持つ。
それと同様に、反対側の世界から私を見た人は、私が断固関係性のなかに入るのを拒むのを見て、そのとき死ぬほど憎しみを持ったことだろう。
自分が憎まれてきた記憶、視線の意味の理解が深まる。
世界が、それだけ違うということ。
世界観の断絶は、決定的な断絶であるということ。
自分にとっての、自分の世界観の自明性。
それ以外の世界観に対する不感症。
そこからくる無垢な、自分の世界観の押しつけ。
自分の世界観が普遍であると信じ、押しつけるとき、人は、戦争を作る人と同じ発想のなかに居る。
こちらしか理が通っていないんだから、どうにかしてでも分からせるという熱量。
私が、真摯に他とは異なる私の世界観を説明して、どうしてこんな簡単なことが分からないのかと悩むとき、私は、戦争を始める人と同じ発想をしている。
住んでいる世界が違うとき、当の相手は、世界でない場所、自明じゃない場所で、戯言を繰ってるようにしか、お互いに見えていない。
コミュニケーションの深い断絶。
だから、はっきりと相手の理屈をきいたうえで、そんなこと何もきかなかったみたいにまた同じ問いかけをすることができる。
自分の世界だけが世界で、それ以外の世界を感じとることは原理的に不可能だから。
同じ物語を、歩んできていないから。
欲望や本音が剥き出しになり、皆この私に向き合え、という主張ばかりが増える世界は、智慧のない社会だ。
それでお互いに殺し合ってしまったら何にもならない、ということを、静かに見つめる人が少ない世界はこわい。