うっかり観るんではなかった。
悲惨。悪意。
自分が信じているものを、他の人は信じていないこと。
他の人が信じているものを、自分は信じていないこと。
そのことが、正面衝突すれば、取り返しのつかない事態になる。
そこで、人は、社会を成り立たせるために、向き合わないことを智慧として習得する。
無関心になるな、向き合えといえば、きこえはいい。
いかにも真っ当な人間の態度だ。
ただ、向き合うことそのものが、逃げ場のない事態を招び寄せていることは少なからずある。
お前はうぶだ、というサマセットの言葉は最悪な形で的中する。
予定は、変更された。
真正面から、このことに向き合ったが故に。
サマセットは、予感している。
このことに、向き合うべきではないと。
その先に、何もないこと、結論まで届くことは、ハッピーエンドではないことを、経験から、完璧に予感している。
しかし、だからといってそこを避けて通って生きるのは嫌だ、という、ミルズのような瑞々しい感性もまだ、決して失ってはいない。
人間が、真摯に向き合うことを通して、結果的に最悪な最後を手繰り寄せることがある、ということから得られる教訓は、教えは、何だろうか。
人間は、人生に向き合うべきではないということだろうか。
おそらくそうではない。
無関心に通るべき場面が人生には多数あり、それで正解なことが何度もあり、普段は別にそれで構わないのだが、それでも、最悪な事態を引き受けてでも人間は、向き合うことを選ばなければならない場所に、望むと望まざるとに関わらず、時々立たされることがある。人生とはそういう場所である。
教えがあるとすれば、そんなところだろうか。
1日やそこらでは呑み込むことのできない、苦い教えだ。
悲惨は、好んで探せば、いくらでも、無限に見つかる。
それは、自分の中だろうが、外だろうが、おんなじことだ。
通常は、それにはまともに向き合わない方がいい。
お前が死んでしまっては、何にもならないんだよ、だから向き合うな、というのが、世を渡っていくためには絶対に必要なことなのだろう。
ただし、何の因果か、人間は時々、目の離せない悲惨に捕まって、それから手を離してもらえないときがある。
そういうときは、どうしようもなく、悲惨のど真ん中を歩まねばならない。
他の道は全て、塞がれている。
また再び帰ってこれるかどうか、それはもう、完全に運でしかない。
我々は人生に向き合うのではない。それが常では死んでしまう。
時々、強制的に、有無を言わさずに向き合わされるのだ。