私はおそらく、良い読書家ではない。
真面目な読書家でもない。
もうそんなに本は読まないんだが。
よく読んでいた頃も。
そこに書かれていること。
作者の真意をよく汲み取ろう。
作者の物語世界をよく味わおうとしていたんでなく。
自らの創作のための、言葉の材料を集めていただけだ。
貼り絵をするのに、チラシなどのゴミになるものを利用するように。
本を開くことで材料収集をしていたんだ。
そういう気がする。
自分の宇宙に、宇宙ゴミを溜める作業。
華厳経に関する読書とか、まさにそれの最たるものだったような気がする。
その経世界をちゃんと理解したいというよりは。
日常語と距離のある言葉の並びを、ストックしておきたいというような欲求。
そうするとあたしはやくざな本読みだった。
そういうことが分かり出す。
その真意を掴みたいというより。
宇宙ゴミは宇宙ゴミでも、そのなかで何か光る優秀なゴミを探したいということだったのだ。
女の人、特に若い女の人に感じてた決まりの悪さってなんだ、ということを考えてきて。
ちょっと、というかだいぶ分かった。
相手に対して、エロさは無限に感じるけど、まったくメロさを感じていないことからそれは来ていた。
大きな気づき。
「メロいってなんやねん、性欲をマスクすな」と思ってたけど、エロいとは全然別の感覚なんだということが分かり始めた。
— 佐多 祐太郎(1992-2092) (@soudaroune) 2026年8月8日
「エロさは感じるけど全くメロくはない」場合が大半で、プライベートでとか動画でとか、本当にメロい人と出会うと、ちょっとさすがにぐでんぐでんになりますよ、ってなる。
何かすごい興奮するけど、相手に何の興味も持てないし、話したいこともないし、俺はこの人が欲しいのか欲しくないのかどっちなんだ、みたいなもののあいだでずっと葛藤があったんだけど。
分かんねえよっていう決まりの悪さ、苛立ちがね。
エロをいくらか得たり。
本当にメロいと自分が感じてしまう人に出会ったりすると、分かる。
どっちか分かんなくて苛立つときは、大概目の前の人にエロさを感じているだけで、それは好きとか話したいとは何にも関係がないってことを。
エロさは圧倒的な力だけど、あくまでもそれはエロいという領域を出ることがないってことが、世の中にはいっぱいある。
メロい人に会えて、自分が、見返りがどうとかそんなのどうでもよく、ぐでんぐでんになれることが分かると、エロとかは依然力を持ちながらも、大分後景に退く。
エロもメロさの前では無力なんだということが分かると、落ち着く。
女の人に対する決まりの悪さも、ほとんど消え失せる。