<4379>「所感(566)」

 居たくない。

 

 もう家庭生活や結婚生活の内部を見たくない。内側に二度と入りたくない。

 

 という思いを、既に小学生段階で感覚している。

 

 事実何があったか、というより、どういうことを感覚していたか、ということを主にまとめる(何より、記憶は捻じ曲げや捏造も知らず知らず含まれてしまうので)。

 

 

 父も、母も、やりたくないものを、世間体や、暮らしの観点から、無理やり続けていて、親戚や、共同体へ向けては、家族は良い関係を保っていて、破綻してないですよ、という演技をずっとしているように、私からは見えていた。

 

 私が家族に対して抱いた最初のイメージは、

 

 「成り立っていない」

 「はじまりから既に壊れている」

 

 というものだった。

 

 私は、両方の祖父母に、同級生に、たまに来る親戚に、いつも嘘の顔を見せながら、

 

 「こんなの全部嘘ですよ」

 

 と叫びたい衝動を常に感じていた。

 

 本当の自分を見せてと言われても、本当の自分は、

 

 「私には家族と呼べる存在は居ない」

 「はやく一人になって存在しない人間になりたい」

 

 というものだったので、どうそれらを伝えるべきか、いつも困惑していた。

 

 

 誰も望んでいないものを続けている空間。

 

 そして、その望まないものが続いていく理由に、私のような子どもの存在も一役買っているという不気味さ。

 

 その空間の不健康さにいつもさらされているという感じ。

 

 

 クラスの子が私を好く。

 

 自分が、現実に存在したくないと願っていることとの激しいズレの感じ。

 

 両親が、それを歓迎していることの、奇妙なつじつまの合わなさ。

 

 成り立たず、無理して演技をして成立させているその帰結の、入口に立つ行為が、その当人たちによって承認されているという、違和感みたいなもの。

 

 それはずっと消えない。

 

 この人たち、どういうつもりなんだろう、という。

 

 何が、そんなに嬉しいんだろう、という。

 

 人と一緒に居ることそのものが地獄を作っており、この関係を進めていくことを望んでもいない人たちが、人と一緒に居ることは幸せなことですよね、あなたもそうなることを願っていますよ、と平気で言う、気持ち悪さみたいなもの。

 

 それはずっと抜けない。

 

 この人たち、誰なんだろうという感覚。

 

 

 20歳になったとき、母が私に手紙をくれた。

 

 私は読んで、何を思ったかというと。

 

 これは、誰に送られたものなのだろう、ということだった。

 

 書いてあることは、良いことだったと思う。

 

 しかし、誰が、誰に向けたものなのかが、最後まで分からないという感覚だった。

 

 現実味がないものを、なぞっている感覚。

 

 

 私は歓迎されている、という話が、私の横を通過していく感覚。

 

 ありがとうと言われても、それが私に向けられているものだとは思えない。

 

 バラバラな方向を向いていて、世間を欺くときだけ一緒になって演技する集団に、私が歓迎されて入ったとは、一向に思えないという感覚。

 

 こういうものを、よし人生でもう一度やろうと思える人たちとは、浅い部分ではいくらも会話が成り立つだろうが。

 

 深い部分での繋がりは、持てない。

 

 こんな無理が必要になるものを、もう一度望んで立ち上げようとは、とても発想できないというか、発想すること自体が全くない。

 

 そういう人間は、社会と向き合って本当に話したいことは、ない。