居たくない。
もう家庭生活や結婚生活の内部を見たくない。内側に二度と入りたくない。
という思いを、既に小学生段階で感覚している。
事実何があったか、というより、どういうことを感覚していたか、ということを主にまとめる(何より、記憶は捻じ曲げや捏造も知らず知らず含まれてしまうので)。
父も、母も、やりたくないものを、世間体や、暮らしの観点から、無理やり続けていて、親戚や、共同体へ向けては、家族は良い関係を保っていて、破綻してないですよ、という演技をずっとしているように、私からは見えていた。
私が家族に対して抱いた最初のイメージは、
「成り立っていない」
「はじまりから既に壊れている」
というものだった。
私は、両方の祖父母に、同級生に、たまに来る親戚に、いつも嘘の顔を見せながら、
「こんなの全部嘘ですよ」
と叫びたい衝動を常に感じていた。
本当の自分を見せてと言われても、本当の自分は、
「私には家族と呼べる存在は居ない」
「はやく一人になって存在しない人間になりたい」
というものだったので、どうそれらを伝えるべきか、いつも困惑していた。
誰も望んでいないものを続けている空間。
そして、その望まないものが続いていく理由に、私のような子どもの存在も一役買っているという不気味さ。
その空間の不健康さにいつもさらされているという感じ。
クラスの子が私を好く。
自分が、現実に存在したくないと願っていることとの激しいズレの感じ。
両親が、それを歓迎していることの、奇妙なつじつまの合わなさ。
成り立たず、無理して演技をして成立させているその帰結の、入口に立つ行為が、その当人たちによって承認されているという、違和感みたいなもの。
それはずっと消えない。
この人たち、どういうつもりなんだろう、という。
何が、そんなに嬉しいんだろう、という。
人と一緒に居ることそのものが地獄を作っており、この関係を進めていくことを望んでもいない人たちが、人と一緒に居ることは幸せなことですよね、あなたもそうなることを願っていますよ、と平気で言う、気持ち悪さみたいなもの。
それはずっと抜けない。
この人たち、誰なんだろうという感覚。
20歳になったとき、母が私に手紙をくれた。
私は読んで、何を思ったかというと。
これは、誰に送られたものなのだろう、ということだった。
書いてあることは、良いことだったと思う。
しかし、誰が、誰に向けたものなのかが、最後まで分からないという感覚だった。
現実味がないものを、なぞっている感覚。
私は歓迎されている、という話が、私の横を通過していく感覚。
ありがとうと言われても、それが私に向けられているものだとは思えない。
バラバラな方向を向いていて、世間を欺くときだけ一緒になって演技する集団に、私が歓迎されて入ったとは、一向に思えないという感覚。
こういうものを、よし人生でもう一度やろうと思える人たちとは、浅い部分ではいくらも会話が成り立つだろうが。
深い部分での繋がりは、持てない。
こんな無理が必要になるものを、もう一度望んで立ち上げようとは、とても発想できないというか、発想すること自体が全くない。
そういう人間は、社会と向き合って本当に話したいことは、ない。