<4366>「所感(560)」

 ある博物館へ行ってきた。

 

 三、四年ぶりくらいかと思う。

 

 久しぶりに展示会のお知らせが目に入ったので、行ってきた。

 

 でも、行く前から気がついていた。

 

 私が期待するようなものは、もうそこには何もないんじゃないかって。

 

 果たしてそうだった。

 

 展示のひとつひとつを、ざっと目でなぞるだけで、すぐに出てきた。

 

 疲れた。もう何もしたくない。

 

 ジムで、泳いでバイクに乗ってって形で自分を追い込むときより、遥かに疲れた。

 

 ちょっと、しばらく寝ていたい。

 

 

 何故、こんなに疲れるのか。

 

 三、四年前に来たときは、全てに興奮し、熱中していたのを、身体で知っているからだ。

 

 興味関心の、「旬」というものの重大さを感じる。

 

 思えば、2010年代の私は、美術館なり博物館なりに様々出入りしていて。

 

 ここには何かあるんじゃないかと、展示のひとつひとつを食い破るような勢いで眺めていたことを思い出す。

 

 展示を出る頃にはヘトヘトになっていた。

 

 けれどそれは、良い疲れだった。

 

 結果的にそこには何もないのだけれど、何かあるのじゃないかと食い入るように熱中できた時間は、私の土台を作ってくれた。

 

 だから、無駄になった訳ではないのだ。

 

 だが、一方で今、その熱は、完全に冷めてしまった。

 

 展示を見ても、もうほとんど何も思わない。

 

 

 結果的に何もないところに、何かあるんじゃないかと思えている時間、食い破るように集中できている時間、それが「旬」で。

 

 掴まえたら離してはいけない。

 

 旬を、味わい尽くす。

 

 また、旬が終わって、完全に冷めてしまった後は、もうそこから同じ効果を引き出そうとしても、絶対に無理になっていることも忘れてはならない。

 

 

 書いていて、この疲れ、この難しさは、断捨離の難しさと同じだと気がつく。

 

 ただ要らなくなったものを捨てるのは何でもない。

 

 明らかに過去、自分の土台を作るのに貢献していて、ある場合には大貢献していて。

 

 しかし、今は自分のなかで褪せてしまっているからもう必要ないものを、ありがとうございましたと言いながら捨てるのが難しいのだ。

 

 要らなかった訳じゃない。要らなくなったのだ。

 

 旬が過ぎ去って。

 

 

 ありがとう、美術館や博物館。

 

 私はあなたがたを食い破る勢いで挑みかかり、その結果として、今の私のなにがしかはあなたがたから形成されることとなりました。

 

 でももう、全くその熱は過ぎてしまいました。

 

 さようなら。

 

 良い経験をありがとう。

 

 さようなら。