淡々と日常を送れていて。
よし、いい感じだ、このまま生存にフォーカスして静かにやってこうと思っていても。
実存に絡む問題がいつも大口を開けて、ちょっとその先の方でいつでも私を待っている。
その問題に対処せざるを得なくなる。
人生ってのはそういうもんなんだね、しょうがない。
昨日書いてて、自分でも驚いたけど。
ひどい仕方で女の人の好意を無視すること。
なんか若いから対応を知らないとかうぶだとかでは片付けられないぐらいに、明らかにひどすぎるなと自分自身ですら振り返って思う仕方で無視をする。
なんであんなに残酷な仕方で応えるのかが自分自身でよく分からなかったんだけど。
はっきりと憎しみがあったからなんだ。
今までは気がつかなかったし気がつきたくもなかったんだろうね。
自分を関係性のなかに閉じようとする人。
特別な関係性に何も感じられない「この私」と幸せな関係を結べると考える人に対する、無限の憎悪、嫌悪感。
付き合ったら楽しいとか、人と一緒に居られることを嬉しいと思えるその健全性が、死ぬほど憎かったんだ。
自分は、一対一の関係性が幸せなものであるという前提を、見事に土台から崩されてるのに。
だから、受け取った上でごめんねとかで応えることもせずに、無視するとかを平気でしてたんだと思う。
許せなかったから。
家に自分以外の人がひとりでも居たら安らがないって、そういう人も居るには居るだろうけど、かなり少数派なんじゃないかと気づく。
家族からも友達からも完全にひとりになって初めて安らげる人はものすごく少数なんじゃないか。
大多数の人はそうじゃないから皆一緒に住む訳でしょ。
つまり人と居る不愉快よりもひとりで居る不愉快が勝る人のが多いってこと。
始まりはこれもやっぱり中学生ぐらい。
自分の部屋に、洗濯物取りこむためとか、正当な理由があるからしょうがないんだけど、そのためにただ自分の部屋を経過されるだけで、毎回軽く殺意を覚えて。
その感情は全く論理的に正しさを説明できないことなので抗議もできず、自分自身で理解もできずに戸惑った経験がある。
ひとりで居るっていう、唯一の安らぎを破られたことによる、あれはヒステリーに近いものだったんではないか。
もっと遡ると小学生時代。
まだ己が何者であるかなど曖昧ではっきりしていない時代に、たびたび友達の輪から外れてひとりで帰りたくなっていたこと。
その行為でしか、そこでしか安らがないと感覚的に知っていてのことだったのではないか。
そういえば、中学の部活とか、今日はひとりで帰ろうと思って、先行っていいよって皆に声掛けても、必ず誰かが俺の横にぴったりとついて片付け終わるのを待っていて。
仕方ないから二人で帰り始めたら、もうちょっと行ったところで全体の集団も待ってるってことがしょっちゅうあった。
何で絶対にひとりで帰らせないんだろう。今でも意味が分からない。
んで、全体の集団に加わると必ず、待っててくれる人がひとり居て良かったな、救われたな、みたいなことを言われるんだけど。
どういう感覚世界で生きているのか、訳が分からなくて非常に戸惑った記憶がある。
皆からしたら、お前の感覚世界の方が意味が分からないという話で、まあそもそも圧倒的少数派だしということかもしれないけれど。
ひとりで居ることは、普通は不愉快として経過されるものなんだと気がついたときの、この、現実は私の場所ではないという、無限に汗が出てくるような感覚・・・。