<4341>「所感(545)」

 若い頃の悩み方というか、一個モヤモヤし続けてたのがあって。

 

 それは、なんでこんなにきちんと説明してるのに、一個も伝わらなかったみたいに、また後日同じ質問が私に向けられるのだろう、というもの。

 

 この人たちには言葉が通じないんだろうかと思って昔は随分悩んでたんだけど。

 

 それは違った。そうじゃなかった。

 

 伝わってないんじゃなくて、身体性とか、その積み重ねの方を人間は見るようにできてる。

 

 それでそっちで判断をするようにちゃんとプログラムされているというか。

 

 行動は雄弁という言葉もあるように。

 

 だから、私はそういう人間じゃないんですよ、ということを、いくら言葉で重ねて伝えても、伝わらない。

 

 特に若い頃は伝わらない。

 

 なぜかというと、言葉に付随する身体性、継続し、蓄積されてきた歴史がないから。

 

 なんか上手いこと言葉は連ねてるけれどもね、ぐらいで、それらは判断の対象には入っていない。

 

 逆に言えば、身体性がそこにともなっているものとか、蓄積されてきたことが明らかなものに関しては、結構すんなり受け入れられる。

 

 私はそういう人間じゃないんですよ、という表明は伝わらなくても。

 

 私はそういう人間じゃないんですよ、という身体を長年やってると。

 

 ああ、あの若い頃から言ってたのはパフォーマンスじゃなくてマジだったんだ、というのが、遅れて効いてきて、やっと伝わるって感じ。

 

 すると今後ね、歳を取ると、良い意味でも悪い意味でも楽になるなと思った。

 

 若い頃は、頑張って散々説明しても伝わらないのに。

 

 年取ると、頑張って説明しなくても伝わってしまうものばかりになる。

 

 身体とか、身体性の積み重ねっていうのは、それだけゆるぎなく。

 

 その人が、その人を積み重ねた独自性ってのは、本当にその人特有のもの、その人でしかないものとして、はっきり人前に表れてしまう。

 

 ずっと説明し続けていたことに、ようやく身体性とか継続、蓄積が追いついてきだした。