被害者意識を捨てるという事は、自分が悪人であり故に批判される要素があるという事を認めるという事なので、これは9割の人間には出来ない事だと思う。相手の非をあげつらう事は簡単な事だが、自分の非を認める事は大変に難しい。善人とは、非を見れない人間の事である。
— 高須賀とき (@takasuka_toki) 2026年7月6日
高須賀さんは、会ったことはないけど、ものを考えるときにいろいろ参考にさせてもらう人で、勝手に頼りになる先輩だと思っている節がある。
本当は、性のとりあえず今のところの総括と、特大の悪意についてはそれぞれ別で書こうかなと思ってたんだけど。
これらは関わりがあるので、むちゃ長くなるとしても、一緒に書く。
自分が、とんでもない悪人であるという自覚を得たのと、それによって過去不思議だったものに答えが次々と与えられることが続いたため、一緒に書く。
1、性の総括
2、糾弾と、完成された特大の悪意について
3、特大の悪意と性の来歴
1、性の総括
前にも書いたけど、たまたま、ギフト的な形で金銭的に余裕があったので、とにかく「俺はアホなのかな」と思うぐらい色街に通い詰めて、セックス三昧をしていた。
というのも、私が女の人としたいことって、セックスだけなんじゃないかなっていう思いが自分の中にずっとあって。
デートとか、暮らしを共にするとかの、そういう他のことは全くしたくない、セックスをしたらすぐ解散したいと思ってて。
そうかじゃあ妄想してるだけじゃなくて、実際そのように実践してみようと思ってやってみたら、果たして私はその通りの人間だったのだ。
まあ、それ自体は別に問題でもなんでもなく、問題だったのは、そういう言わば私が、社会的にクズであることを、若いときは受け止め切ることができずに、なんかヘナヘナしてごまかしてしまったところにあった。
いろんな人とセックスするのは、はっきり言って最高だった。
めちゃめちゃ楽しいし気持ちいい。
これから先、全くできませんとなったら残念には思うだろうけれど、文句は一切言えないなと思うぐらいにはもう十分楽しませてもらったし、満足させてもらった。
しかし、これが性の面白く、残酷なところなのだが、じゃあ、そのセックスをしたいがためだけに、付き合いとか、結婚とかが伴ってほしいと思うようになったかといえば、ならなかった。
私がたびたび自身の問題として掴まえている、それは「居たくない」というところから来ている。
色街の、その高い値段がどこから来るかって、それはセックスそのものというよりは、「終わったらすぐに帰れる」というところから来ていると、大袈裟に言えば感じていたぐらいだ。
私はそこにもお金を払っていた。
また、もうひとつ私の想いが変わらなかったことに決定的な役割を果たしたのは、本当にかわいくて、もうずっと通いたいと思って通っていた人が、あるタイミングで急に、はっきりと自分のなかで褪せたことだ。
自分でも嘘だろと思った、嘘だと信じたかったけれども、やっぱりはっきりと、何も思わないぐらいに褪せていた。
そういうことを経験すると、女性の、売春に対する批判の真っ当さに意識が向くようになる。
それは色々な言葉で尽くされてはいても、要は、機会を奪うな、種明かしをするなというところに尽きるだろう。
身体が簡単に許され、終わってすぐ帰ることが許されるのなら、人がこっちに来なくなるだろ、という批難はかなり真っ当なものである。
また、どんなに良いと思った相手でも、回数が重なれば、あるとき急に褪せることがあるという、そんな秘密を明かすな、種明かしをするなという批判も、かなり真っ当なものである。
私はこれから先、何らかの運動によってこういう機会ごとごっそり奪われても、もう何も文句は言えないという感覚がある。
批判している人の方がどう考えても正しいからだ。
私の方が間違っている。
愛する人と心を通わせて、セックスをし、付き合いを深めたり、結婚に向かったり本来はするべきであって。
人と居たくないし、どんなにかわいくても必ずどこかで褪せるから、付き合いも結婚も要らないと言っている人間は、社会的にはどこからどう見ても間違っているし、悪である。
ただ私の本心は、今書いてきたようなところからは動いていない。
ここまで律儀に読んでくれている人は、読むのが嫌になったかもしれない。
ただ、私は自分の悪、それも特大の悪と向き合うこと、自分がとんでもない悪人であることを確認しないと前に進めないので、次の段階へと移ります。
2、糾弾と、完成された特大の悪意について
人間をよく観察してみて気がつくのは、向けられた悪意、それも軽い、じゃれているような悪意に対しては、こちらからも軽い悪意をぶつけ返して、人間的に一時、相手とともに一緒に下がるのが、普通の人の付き合いの仕方だということで。
そうすることによってどうも仲を深めているようである。
翻って私は、直接だろうが陰口だろうが、悪意に対して悪意を返すということをしない。
ニコニコしている。
人は、それを善性と捉えるかもしれないが。
私からすれば、それは完全な、行き切った悪意なのである。
どういうことかいうと、悪意に対して、悪意を返さなければ、相手だけが下がる。
相手だけが損をする。
自分はそれを、相手だけが下がったなと思って見ているだけ。
また、悪口を言わないのは、それによって自分の行動範囲や可能性を狭めたくないという利己心が働いていて、そこに相手に対する配慮などというものは、少しも入っていない。
これらは、どう考えても善性ではなくて、悪意である。
悪意の極まりである。
私はよく仏、菩薩のようだと言われ、何度も心の中で首を傾げてきたのだが、どうも、悪意の極まった人間は聖だと勘違いされやすいようだ。
あるいは、もっと言えば、悪意の極まった人のことを聖と呼ぶのではないか、と思うようになった。
最後に毒を飲んで死んだ、ソクラテス。
あの、私は何も知らないという悪意丸出しの態度で対話相手に冷や汗をかかせ続ける人。
対話で完璧に勝ちながら、相手を苛立たせ続け、ついには自分を殺させるところにまで周りの人々を追い込む人。
ソクラテスは、誰かが毒を飲まずに逃げられる道筋を完璧な仕方で用意したとしても、絶対に逃げないだろう。
なぜなら、毒を飲んであの場で死ぬことによって、ソクラテスがなぜ悪いのかを完璧には説明しきれないまま、ただ憎悪によってソクラテスを死に追い込んだ、不当な人たち、恥知らずの野蛮な人たちという評価を周りに与えて、その人たちの未来での地位を見事なまでに失墜させ。
自分は、不幸にも周りの人々の無理解に殺され、しかし最後まで真理だけは守ったというポジションを獲得することができるからだ。
周りの人々だけを完璧におとしめて。
これが悪意の極まりでなくてなんだろうか。
特大の悪意でなくてなんだろうか。
私は、お釈迦さんが人の悪意や悪口に対して応えない、そうすることによってそれらはそのまま言った当人に跳ね返るから、という逸話を聞き、嫌な汗をかく。
ニコニコして応えない、悪意の人だと認識する。
反対に、あとさき何にも考えないで、バァーっと失礼なことを人に言っちゃう人は、常々「大人なのに子どもみたいだな」と思ってきたけど、そうじゃなくてそういう人は悪意自体があんまりないんだ。
あっても極まってない。
だから無邪気に悪意を向けちゃう。
それで自分だけ不利な立場に勝手に入って、位置が下がっちゃう。
悪意が極まると、周りだけ下げることができる。
私は、人を殺す人は、悪いから苦手なのではなく、悪意が少ないから苦手だ。
人を殺してたんじゃ、その人だけダントツで下に下がるだけじゃないか。
悪意が完成した人、行き切った人は、殺すんじゃなくて、自分を誰かに殺させる。
ソクラテスのように。
そうすることによって、他者を徹底的に地の底へ叩き落とすことができる。
3、特大の悪意と性の来歴
ずっと昔に、そこまで女の人にしてあげる人には、私はどうあってもかなわないなあという、かわいこぶりっこを書いたことがあった。
だいぶ若かったんだね。
でも、実相は、自分なんて全然かなわないよ、じゃない。
それは自分を被害者に見せかけるフェイクで。
私がそのとき心底から思ったのは、そんなことが必要なら、付き合いなんか本当に要らねえな、というようなことで。
でも、まだ若かったから、それはあまりにもまずいという感覚があったのか。
それをそのまま外に表明して、自分が悪人であるということを引き受けることが出来なかった。
引き受けることができなきゃ、自分を偽りの、可哀想なポジションに置くしかない。
そういう対処を取ってきたことに気がつくと、私がよく「周りの人に意味もなく睨まれ、憎まれていた」ことの意味も、よく分かるようになってきた。
私は、二度と家庭生活に入りたくないと、もう小学生ぐらいから思っていることもあり、人とずっと一緒に居ることなんか、本当にごめんだ、と思ってきたくせに。
それをそのまま表明して、悪人だと名指されるのがおそろしくて。
表面ではニコニコして、弱さから、そのつもりがあるかのように振舞ってしまっていた。
しかし、底に控えているのは、絶対一緒になんかならない、居たくない、そんなものは要らねえという、特大の悪意だったから、近づいてきた人の事は、巧妙に、あるいは残酷に拒否し続けるということをしていた。
そんなことをしているやつは、当然睨まれるし、憎まれる。
当たり前のことだ。
自分のそういう特大の悪意が見えていなかったのは、自分だけだったのかもしれない。
一緒に居たくねえ、要らねえという悪意を素直に表明している人間の方が、人間としては数段まともだ。
なぜなら人を騙していないから。
お前悪いやつだなと、小学生のとき当然のように女の子に応えず残酷に無視した私は、その当時の担任の先生に目を見てはっきりと言われた。
ごめんなさいとか、良いよとかではなく、底の底に要らねえって意識を抱えていることを隠して、ニコニコしながら普通になかったことにして無視をしたのだ。
悪意が大きすぎる。
今でもそうだが、若い頃、子どもの頃は、もっと弱い人間だった。
だから、自分の悪意の大きさに向き合うことができず、必死にそれを隠したんだろう。
自分にも、他人にも見えなくなるぐらいに、私は悪意を磨き、ついには完成させた。
それが、私が仏のようだと言われることの、本当の意味だ。
普通の人は、生きていく段階のひとつひとつで、仲間と、恐怖とか不安を共有したがっている。
周りの人と一緒に生きているという感覚があればこそだ。
私は基本それらをふっかけられても気にしない。
あんまりしつこく、こわくないのか不安じゃないのかとやられると、何だよめんどうだなあ、じゃあやんなきゃいけないんだなと思ってひとりで、誰にも相談しないままやりまくる。不安を分かち合わない。
今回の性の件もそうだ。
それで後になって、慣れてきた頃合いで、やれと言われたからやって、こんな具合になりましたけど、どうですかと提示する。
すると、周りの人は黙ってしまう。
なぜなら、あなたにやってほしかったことはそれじゃないからだ。
同じ時期、同じ時間に、不安を分かち合いたかっただけなんだ。
いっぱいやってひとりで勝手に上手くなってきてなんて、誰も言ってないし、求めてない。
こういう引き受け方、態度が悪意でなくてなんであろうか。
性の総括とともに、自分が特大の悪意を携えた悪人であることを自覚した私は、当然のように今日も、自分の家には誰にも、指一本踏み込ませず。
ここを楽屋裏だと思って、鍛錬を繰り返している。
それが、異常な生命の形であることには、気がついている。
気がついているが、じゃあ誰かがここへ入ってきて、それで私は安らぐのかと言えば、安らがない。
どんなに綺麗な人が来ても、時間が経ち、済むことが済めば、思うことはひとつ。
早く帰ってくれないかな、ということだけだろう。
いや、それはまだまだかわいこぶった、生ぬるい表現かもしれない。
俺の領域に、一歩でも足を踏み入れるなよと、底の底の本当では思っているのが、私という人間の実際の姿だ。