やる気のある奴なんか素人ですよ。
と、喜多八師匠はマクラで振ったことがある。
掃除(断捨離)も、創作も、性も。
何にも面白くなくなって、飽きちゃってからが本番、そこから初めて本格化するって感じがする。
そこから工夫とか集中力とかが出てくる。
その領域にめったやたらに興奮しているうちは、まだまだ内化されていない。
その理想化、その領域に何かを託す感じ、そんなの正直もうどうでもええですわ、とならないと、本当には身につかない。
それら各領域は、実存の底の底の不安を、肩代わりしてくれるものではなかったのだ。
それによって救われはしない。
それによって全てが解決する訳でもなければ、それで完璧に満たされる訳でもない。
掃除すれば、断捨離すれば全ては解決する。
セックスすれば、全ては解決する。
他の人は知らないけど、自分は、全然そんなことはなかった。
そういうことがあるんじゃないかと期待していられるのが、若者/アマチュアの段階で。
そんな、いわゆる宗教的な、最終局面での大救済なんかありゃしないんだよと、そういうことが分かってはじめて、大人/プロの段階に入れる。
喜多八師匠が言いたかったのもきっとそういうことで。
芸とか追求の放棄の意味で、やる気がないと言っていた訳ではないと思う。
実際喜多八師匠の落語を聴いていると、めちゃくちゃやり込んでるように聴こえる。
お前が期待したようなものは何にもない、ここで何かを成し得たって、お前が思うような救済なんかひとっつもない。
それでもそれらの領域が何かではありうること、そのことが分かってはじめて、それら領域での活動は本格化する。
それらが内化される。
やる気がないとは、放棄ではなく、静けさがまた一段自分の中で深まったことを指している。
吉本さんは、毎日書いていって、それでもって、所定の時間それに耐え得た上ではじめて、その人の思想とか、テーマとかが出てくるんだって話をしてるんだけど。
多分、一旦自分が、書くことに対して持った期待とか、高揚感とか、幻想とか、そういうものが全部剥がれ切ってからしか、その人の本当の思想ていうのは出てこないようになってるってことなんだろうね、と今は理解してる。
持った期待が大きければ、それが剥がれ切るまでにもだいぶ時間がかかるわけで。
能力をつけろって意味もあるけど、同時に、幻想を完全に剥がしきれって意味でも、吉本さんは10年毎日って、言ってたんじゃないかなあ、と今のところは思ってる。