これあれだな、去年の12月だから、行きたかったけどなんか仕事で断念した感じのやつだ、見れた。
avexが全壊するくだり。
つんくさんのくだり。
5日に1回は脳ドック。
汗海と三好のコンビネーション。
で腹抱えるくらい笑った。
特につんくさんのくだりは、床に膝ついて立ち上がれなくなるくらい笑った。
『きえきの万次郎』とかが、ぴんくさんの漫談のなかでいっちゃん好きだから。
なんかこれ、映像作品とか、アニメとかになっても見れるな、面白そうだな、とか前までは思うこともあったのだけど。
もう、なんか、そういう次元じゃない。
そういう代替物はむしろ要らないって気持ちになってる。
例えば、落語が、なにも持たないがゆえになんでも表現できる世界だ、というのと同じように。
ぴんくさんがただ舞台に立って喋ってるだけという「制約」のおかげで、ありとあらゆることが可能になっている、芸能の極を見ている。
長さも、大体映画の尺とおんなじくらいだけど。
もう、構成力とか、表現力とか、人物の多彩さ、あいだに挟まる筋と関係ないただ面白いだけの時間とか、そういう緩急も含め。
芸の総合力が極まりすぎていて。
映画とか、そういう表現形態よりもはっきりと上の作品を作っていると思っている。
ネタバレになってしまうので、どの作品との類似ってことは言わないけれど。
ぴんくさんの作品は、これ本当なんですよって言って押し切るパターンと、全部私の頭の中の出来事ですって言ってしまって、嘘ではなくて妄想だっていうことをはっきりと言い切るパターンとがある。
それで、私がぴんくさんの漫談に圧倒されたときに、しつこいぐらいいつも思うことがあって、それは普段この人はどうやって生きているんだろう、ということで。
ぴんくさんは漫談のなかで、1個1個きしょいとか、内容が向こう岸すぎていやとかを、オモシロとしてちょいちょい挟むことが多いんだけど。
たしかにオモシロとして提供してはいても、それでもこれら叫びは限りなく本心に近いんじゃないかなっていう、うがった見方をしている。
本当に、苦痛なのは苦痛なんだと。
頭の中がこんなであることに対する反逆者として、殺人者が出てくる。
もう、こんなことを考えるのはやめにしてくれと。
しかしぴんくさんは、頭の中の反逆者そのものも、自分のネタの核として使って。
自分の方から出向いていって、反逆者そのものに辿り着き、ふふっと笑うことで、漫談を締めている。
自分のなかの凹みが、反対に豊富な種を生んでいること。
そのことは、仮に承認できたとしても、それが100%嬉しいに繋がるかと言われたら、そうでもないのではないか。
ただ、こういう自分のおかしな部分すらも呑み込んで呑み込んで使い尽くすよ、という領域にまで入っているぴんくさんは、もう、芸能として相当極まっているということだけは言える。
無責任に、まだ、もっとこの先の景色を見てみたいと、それでも私なんかは思ってしまう。
だって、面白過ぎるから。