<4282>「所感(518)」

 幼いとき。

 

 新しい場所にきて、ここから何かが始まると感覚したことは、間違いではなかった。

 

 しかし、今この現在時に立って思うのは、人生、新しい場所に立って、ここから何かが始まるというよりは。

 

 新しく出会ったものも含めて、全てのことは。

 

 これが最後という性質のものなんだ、ということで。

 

 別に、死ななくても、はっきりと別れてなくても、全ての現象は、これが最後を多分に含んでいて。

 

 またいつでも再現されるような表情をしていながら、それそのものが再現されることは、永遠にない。

 

 そういうことに繰り返し出会って初めて、私は、即興性ということの重みを知る。

 

 即興、その場一回限りのもの。

 

 しかし、それらはその場一回限りのものなのに、その出方には、人間のそれまでの蓄積が現れる。

 

 だから、過去は、蓄積として死に。

 

 刻一刻と死に。

 

 日々の私の即興性の地面を形成している。

 

 私はそれに、ちょっと今日この場ではどういうステップを踏もうかと思案することで、応える。

 

 一回一回が最後だ。

 

 逆に言えば、何故か分からない、あるいは意思を持って長い期間続けたものは、異常な強さを持っている。

 

 即興が無限に重なり続けたという稀有性。

 

 

 私はできない、こわい、やれないという声の層を、無限に持ち続ける。

 

 それは、私の生まれたての層、さらには幼少の層で。

 

 以前、もっと若い頃は、その声を自分のなかから消そうと躍起になった。

 

 今は違う。

 

 その層は、私のなかから消えることはないことを理解しているから。

 

 だから、今とは別次元の層も、私のなかに永遠に生き続け、只今の現実とは違う声をあげているのだ、ということを、ただ皮膚の内側を使って感覚するだけだ。

 

 私はひとつの層でここに現象している訳ではない。

 

 そしてまた、やれないこわいという声は、現実の対処能力とは関係がないことも、これは皮膚の外側でおさえておく。