<4266>「所感(511)」

 私は猿です。

 

 ずっと延期してきた、というのは自分の持っているその欲望が大きすぎることを自覚し、ライフワークの土台作りの完成の障害にならないように、意図的に延期させてきたその欲望を。

 

 外面では嘘をつきつづけていたこの欲望を、やり直しやり切っている時間に今は居る。

 

 性という死の時間。

 

 もう本当にやだ、性をやり尽くして、本当にやだってところまで行こう。

 

 

 浮気とか不倫を見たときのショックは、「そんなことしてひどい」ではなく、そこに自分の似姿をみるから。

 

 そういう機会がなければ別にあれだけど、そういう機会に居合わせたら、俺もこれを100%やるだろうな、という確信。

 

 ああそう、あんたたちもやっぱり猿だよな、そう俺も同じだから何も責められない、というような感覚。

 

 誰に言われる訳でもなかったが、自分のなかでの禁止が大きかった。

 

 欲望が大きすぎて扱えなかったと言った方が良いかもしれない。

 

 やっと最低で、気持ち悪くなれたんだな。

 

 自分の芯の部分の最低さ、気持ち悪さを、やっと素直に表明できるようになった。

 

 良いお父さんとか、穏やかで優しそうという、内面とは全く真反対のものから解放されて嬉しい。

 

 

 尤も、他者が私という人間を見誤るのも無理はなく。

 

 というのも、大欲って見えない。

 

 無欲のごとしというように。

 

 大欲は。

 

 1に、でかすぎて焦点が合わせられない。

 

 2に、でかすぎる欲望は、意味が分からない。

 

 例えば、私のなかに芽生えてその初めから今もずっとある欲望は。

 

 女の人がいればそれが誰であれ片っ端からセックスしたいというものなのだが。

 

 惹かれあって付き合ってというのが本分であると考える社会の側からしたら、意味のわからない欲望だろう。

 

 どうしてそんな誰でもいいから片っ端からとか、変なことを欲望してるの、と。

 

 そんな、どうしてこんなに欲望が大きいのかなんて、私の方が訊きたいぐらいだ。

 

 若いときはピュアだから、そういう大欲をぐっと抑えて、社会から見えている私のイメージに沿うように、禁止をして抑えつけてた。

 

 が、気持ち悪さ、最低さを表に出せるようになった方が、私個人としては呼吸がしやすくなった。

 

 堕落できた。

 

 やっと、やっと堕落できた。

 

 

 思うに、絶対良いお父さんになるとか、家族も仲の良い友人も含めそれ以外の人々も私に向かって言うのには。

 

 前述した通り、シンプルに大欲が見えづらいからってこともあるだろうけど。

 

 その、無欲に見える奥底の、言いようのないエネルギーの大きさを、無意識レベルで予感して、特に私のしつこさなどをおそれていた親などは予感して。

 

 ある種、私のなかの大欲を封印するまじないのように、「良いお父さん」を繰り返し唱えていた部分もあったんだろうな、と今は思っている。

 

 私も健気だったから、若い頃はそのまじないに沿おう、寄せようとしてきたけれど。

 

 結局、無理だった。

 

 私は、欲望の大きすぎる猿でした。

 

 

 バタイユや、フーコーのように、晩年は性でぐっちゃぐちゃのめっちゃめちゃになって死んでいくのが、ある種、猿たる私のような人間にとってはちょうどいいというか、そうやって生きるのが、欲望に正直で潔いのかもしれない。

 

 ひとりの人を愛し、子を愛する良いお父さんになろうとする欲望が、私のなかのどこを探してもひとつも見当たらない。

 

 私は猿です。