<4164>「所感(464)」

 積み重ねには、ふたつの側面がある。

 

 ひとつは、それによって、私を支える足場が、厚く、高くなるというもの。

 

 もうひとつは、私の上に乗る荷物が、ひとつ、またひとつと、増えていくというもの。

 

 積み重ねによって、力と負担とを、同時に得ている。

 

 今も、刻一刻と、得続けている。

 

 あるとき、ふと、あまりにも力が強大になっていることに気がつき、私以外に誰も居ない、この静かな部屋で、私は無言の轟音を聞く思いをする。

 

 それは恐怖と喜びを、ともに招び起こす。

 

 またあるときは、私の上に積み重なった荷物の、もう振りほどこうにも振りほどけなくなった物量を前に。

 

 居室の隅で、小さく転がり、しばらく起き上がれない思いをすることがある。

 

 これはもう、手で払いのけれるレベルのものではない。

 

 

 積み重ねをはじめたときは、こんなこと、想像だにせなかった。

 

 人は、積み重ねの偉大さを説く。

 

 積み重ねの眩しさを説く。

 

 積み重ねの静かな満足の境地を説く。

 

 それは、確かに、間違いではない。

 

 間違いではないどころか、完璧に合っている。

 

 私もその恩恵を、物理的にではなく心的に享受している。

 

 ただ、積み重なったその高さの、おそろしさ、目眩の感覚。

 

 積み重なった物事の、重さもまた、同時に説かねば、片手落ちになる。

 

 ということなどを現在時の私は思う。

  

 例えば生きていたとして、十年後にはこのことに対して何を思っているのだろう。

 

 その感慨を確かめるために、ゆっくりまた積み重ねながら歩いていく、という生き方自体はある。

 

 あまりにも生々しく、あまりにも普通に、そういう生き方は現実のなかに存在しえる。