積み重ねには、ふたつの側面がある。
ひとつは、それによって、私を支える足場が、厚く、高くなるというもの。
もうひとつは、私の上に乗る荷物が、ひとつ、またひとつと、増えていくというもの。
積み重ねによって、力と負担とを、同時に得ている。
今も、刻一刻と、得続けている。
あるとき、ふと、あまりにも力が強大になっていることに気がつき、私以外に誰も居ない、この静かな部屋で、私は無言の轟音を聞く思いをする。
それは恐怖と喜びを、ともに招び起こす。
またあるときは、私の上に積み重なった荷物の、もう振りほどこうにも振りほどけなくなった物量を前に。
居室の隅で、小さく転がり、しばらく起き上がれない思いをすることがある。
これはもう、手で払いのけれるレベルのものではない。
積み重ねをはじめたときは、こんなこと、想像だにせなかった。
人は、積み重ねの偉大さを説く。
積み重ねの眩しさを説く。
積み重ねの静かな満足の境地を説く。
それは、確かに、間違いではない。
間違いではないどころか、完璧に合っている。
私もその恩恵を、物理的にではなく心的に享受している。
ただ、積み重なったその高さの、おそろしさ、目眩の感覚。
積み重なった物事の、重さもまた、同時に説かねば、片手落ちになる。
ということなどを現在時の私は思う。
例えば生きていたとして、十年後にはこのことに対して何を思っているのだろう。
その感慨を確かめるために、ゆっくりまた積み重ねながら歩いていく、という生き方自体はある。
あまりにも生々しく、あまりにも普通に、そういう生き方は現実のなかに存在しえる。