ネトフリにて。
なんだ、これは。
なんだ、これは。
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あんなに自分が疑われて、自分の代わりに本当にやったやつがいるなら、自分がやればよかった。
タゴサクはずっと影だった。
存在しない、誰も自分に熱を向けない。
私の代わりに、罪を被ってくれ。
なぜならお前は、影なのだから。
ふうん、そうか。
じゃあ、もういいや、やってやろうじゃないの。
俺は操られているだけの影武者、ただの人形。
そういうことにして、全部をひっくり返してやろうじゃないの。
映画の途中、私は、現場を暗示する言葉遊びのチープさに、見るのを投げそうになった。
しかし、チープさは、タゴサクのものではない。
自分が、真犯人に成り代わるための演劇にすぎなかった。
背景は違えど、こういう、裏側が明らかになって一気にゾッとする感じ、ユージュアルサスペクツを思い起こさせる。
人が、主にただ向かい合って喋っているだけの映画って面白いですよね。
ユージュアルサスペクツしかり笑の大学しかり。
時々その、演じられたチープさをぶち破るように、タゴサクの素の顔、咆哮が飛び出す。
タゴサクは等々力に、類家に、自分の似姿を見る。
お前ら、ごまかしてるだろ。
自分を、十全に生かしきれず、中途半端な場所に置かれて、自分の大切にしていたものを、簡単に踏みにじられて。
それで、大人しくそこに座って人生やってて、満足なのかよ、と。
人を殺してやりたいと、お前らは思わないのか。
現実世界でも創造世界でも、どうして我々は、悪人を欲してしまうのでしょうね。
きっと、自分の姿が、拡大鏡を使ったかのようにそこに大写しになっていて。
自分が必死にまとっている仮面も、その全部が剥がれ切っている姿が目の前にあるから。
どうしても、目を離すことができないんでしょうね。
最後までこの映画についてきて良かったな、と思うのは。
等々力も類家も、そういうタゴサクの剥き出しの問いに。
人生は素晴らしいものだとか美しいものだとか、そういうくだらない回答をもってきて答えなかったからで。
自分にだって、タゴサクの言っていることは分かる。
分かりすぎるほどによく分かる。
同類かもしれない。
でも、でも。
俺は怪物ではなくて、人間で居ることを選ぶよ。
そうやって生きていく。
それは案外、悪いことだけでもないと。
つまんないことだけでもないと。
そうやって、丁寧に誠実に、ごまかさずに応えていたのが、良かったな。
苦さはあるんだよ、でもそれでもという、ね。
私は映画情勢のことは詳しく知らなくて、なんか映画界がちゃんと盛り上がってる、ぐらいの薄い認識しかないんだけど。
ああ、映画って、見る人をちゃんと信頼してるんだな、と思ったのは。
グロテスクな描写がいっぱいありましたよね。
普通に抜いて精子出すとことか。
娘がゲボ吐いちゃうとことか。
警察の足が地雷で取れちゃうとことか。
損傷の激しい遺体とか。
なんか、うわあ、こんなの映して、私に見せつけてきて、どういうつもり!
とか怒るだろう人がメインの層だったらこういう演出はできないだろうし。
そういう人は映画を見に来る人の中にはほとんどいないっていう、観客に対する信頼がなければこれはできないことで。
しかも、それら演出が、グロテスク趣味にも別になってなくて。
全部、物語に必要だから映ってるって感じで、逆に透明だった。
良いな、と思った。
まあ、物語的に、現場で抜いてたよ~ぐらいのゴシップで娘が吐いちゃうほどかな、とはちょっと思ったけど(これ本とかではまた違うのかな)。
死体を激しく犯してたとかでもないし。
まあ、それによって自分が被る諸々を想定して吐いちゃったと考えれば別に変ではないか。
私は、現場で抜いてたぐらいのことを、わざわざ記事にして国民に知らしめて、これってどうなんですかねえってやってる側の方がよっぽどグロテスク、それこそ吐いちゃうほどのことではないか、と思うのは思ったな。
ちょっとこの映画はね、すごかった。
これは本の方も読みます、さすがに読ませていただきます。
いやあ~。