<4085>「所感(427)」

 中庸がわざわざ思想として言及される。

 

 それは中庸が、妥協した、落ち着いた境地、何も考えずにそこに存在できる境地ではないからだ。

 

 中庸が、一番両極から引っ張られ、常に糸が張りつめていて、緊迫した場所なのだ。

 

 願わくば、どちらかの極に傾いてしまいたい。

 

 そうした方が、どんなに楽だろうか。

 

 

 中庸1∶関係あると関係ないの間に居る

 

 資格勉強とかって何のためにやってんの。

 

 たまにこれ自分自身で見失うことがある。

 

 勉強のための勉強になってるというか。

 

 でもこれ明確に土台作り。

 

 何のための土台ってふざけたフラフラした生を全うし切るための土台。

 

 どんなに上手いこと行ってても、何らかの事情で職場を離れることになると、職場での関係性ってほぼほぼゼロになってしまう。

 

 でも、資格とか身体的技能とか。

 

 分かりやすく身につけたものはたとえ今の場所を離れてもゼロにはならない。

 

 そういう意味での土台を、フラフラする人間だからこそコツコツ作っている。

 

 結局関係がなくなってしまうものと、関係なくはならないものをよく見極めること、人生は長い。

 

 ただ、じゃあ資格とか勉強とかが大事なんだから、職場の人との関係性なんか無意味だろ?っていうふうには振舞わない。それは極。

 

 反対に、職場の人に気兼ねをして勉強のペース鈍らすとかもまた極。

 

 その間、中庸地点にいることを心掛ける。

 

 

 中庸2∶断捨離とゴミ屋敷の間

 

 自分のなかで片付けブームが起きてるからよく考えたりするんだけど。

 

 片付けとかに関する一切を放擲してしまいたいって欲望と、全部のモノを放り出してしまいたいって欲望は、矢印の向く方向こそ違えど、よく似ている。

 

 どちらも極なのだ。

 

 私は片付けにハマっている以上どちらかというと断捨離寄りなのだが。

 

 何もかも捨ててしまいたい!という極の欲望を感じながら、それには身を委ねないようにする。

 

 前にも書いたけど、捨てることにフォーカスしない。

 

 アクティブなものを残すってことにフォーカスする、結果ものが勝手に減る、という穏やかな着地をキープし続けたい。