<4083>「所感(426)」

 アドラー、というか『嫌われる勇気』のなかに、課題の分離という重要な概念がある。

 

 私はそれを、自分で解決できないものは抱え込まない、ぐらいの理解度で捉えていたんだけど。

 

 例のごとく本を片付けていると、課題の分離ってのは決して上述の意味だけではないことに気がつき出した。

 

 というのも、自分の課題がそこにあるから取っておいている本、自分がそれで楽しみたいから取っておいている本などは良い。

 

 でも、そうではなくて、外部に向けた自分の見栄であるとか。

 

 これは自分の課題ではなくて他人の課題ではないだろうか、と思える本をいくつも抱え込んでいることに、片付けをしていると気がつく。

 

 私は今、そういう、見栄による本、その実、自分にとって切実でもなんでもないのに、外に向けて良い顔を見せたい、賢くみせたいから、というような理由で蓄えている本を、丁寧に処分している。

 

 また、本において他人の課題を抱え込むとはどういうことか。

 

 若いときは、スレておらず、未熟でもあるから、またそれがなりふり構わずものを読む原動力になるという側面もあるのだが。

 

 著者が、そのなかでも尊敬している著者が、著作のなかで、これは人類全体の課題だ、とか、全員が読むべき本だ、などと息巻いていると。

 

 ピュアだから、そうなのかな、と素直に思ってしまう。

 

 しかし、経験を積んでくると分かるのだが、そう書いてしまうほど著者がただただ興奮しているだけだということが分かってきたり。

 

 それが本当に切実なのは著者であって、私ではないということに気がついてきたりする。

 

 つまり、他人の課題を自分の課題だと勘違いして本を読んだり集めたりしてしまうのだ。

 

 それによって当然幅が広がる側面もあるのだが、私の切実さは他人のそれとは違う。

 

 だからそうやって集めた本はいまいち私の核にはなりきらない、当然ではあるが。

 

 課題の分離ってのは、私が解決できないことを抱え込まない、だけではなく。

 

 抱え込んだら解決できるかもしれないけど、そもそも自分にとって切実ではないのなら、わざわざ抱え込まない、というものも含まれるのだ。

 

 そういうことに気がつきはじめて私は徐々に別れが上手になってきている。