<4047>「所感(409)」

 ①流派がある意味、師匠がいる意味に気がつく

 

 

 鶴見さんのツイートを見て、しばらく考え込んでしまった。

 

 私はものを毎日書いていく、これは一生涯やると決めて生きているんだけど。

 

 それが、私がものを書く上で最適な形だったかというのは、複数の生を生きられない以上、確認しようのないことでもある。

 

 もしかしたら、毎日書かないで、ある日ひらめいたときだけ書いていく、あるいは、しっかりと何日も何カ月も何年も構想を練って、まとまってから書き始めるのが、本当は自分がものを書く上での正解だったのかもしれない。

 

 しかし、人間の生の一回性のため、同じ年齢で同時にふたつの矛盾することを確認することができない。

 

 パッと掴んだものでやっていくしかない。

 

 後悔は無限に生成できる。

 

 そのときそのタイミングで、何故かは説明できないけれどパッと掴んだもの、それ以外の無数の取り得た可能性を取り上げるだけで良いんだから。

 

 後悔しないように、今死んでもいいように、はそれはそうなんだけど。

 

 人間にとって難しいことに、今死んでもいいと思ってやりたいことをやっておいても、大概の場合において明日は平然とした顔をしてやって来るっていう問題がある。

 

 だから、全てをやり切ったように思っていても。

 

 自分は完璧に判断して生を送ったつもりになっていても。

 

 そのあとでまた平然と明日が来て、可能性が複数待ちかまえている以上。

 

 明日になって今日のことを振り返る余白がある以上。

 

 後悔は必ずついてまわる。

 

 正解が何だったのかも分からない。

 

 そういうとき、何を基準にしてそのときそのときの判断をしていくか。

 

 正解も分からないなかで、ってなったときに、頼みの綱となるのが流派であり、師匠の存在なんだ、ってことが実感としてグッと迫ってくるようになった。

 

 私が毎日ものを書くのは、毎日書かなければ駄目ですよ、と吉本さんが書いていて、それにビビッと来たからという、言ってしまえばただそれだけのことに過ぎない。

 

 

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 吉本さんが言っていることが、私にとっての正解なのかどうか。

 

 それは一生分からない。

 

 じゃあ何故従うのかと言ったら、私が吉本さんのことを師匠だと決めてしまったからという、ただそれだけの理由なのだ。

 

 本当は鶴見さんの言う通り、毎日やっていくことは、ただただ内容を薄くしているだけのことに過ぎないのかもしれない。

 

 でも、私はその話にう~んと唸っても、従わない。

 

 それは、ただただ、流派が違うから、というだけのことだ。

 

 師匠を誰と定めて、正解もないまま進んでいくかっていうのが、そのまま生き方に繋がっていく。

 

 「師匠選びも芸のうち」ということ。

 

 

 ②自分が一個の個体から出られないという特質を逆に利用する

 

 過去と別れて、静かに今、前とは全然別なもの、ホットなものだけに集中していても。

 

 過去に触れて必要だったものは必ずこの私のなかに残っている。

 

 やっていることが今と前とで全然違ってバラバラの人間のように見えるだけは見えても、結局同じ個体だから。

 

 だから、自分のなかで過去になったものとは安心して別れたらいい。

 

 それは物理的にも精神的にも。

 

 そうやって別れて、自分では全然別のところへ出たつもりでいても。

 

 結局一個体を出られない以上繋がっちゃうものは勝手に繋がっちゃうので。

 

 自分という具体物をもっと信用して、どんどん過去とは別れること。