<4042>「所感(407)」

①本当は訳分かっている

 

 私の人生本当に複雑に物事が絡み合ってきて、訳わかんなくなってきたなあ、などと調子乗りで言ってるけど。

 

 本当はどんなに物事が複雑に絡み合おうが、訳は分かっている。

 

 これは昨日も書いたんだけど、分からないことを良しとする価値観というか、その方がカッコイイと思っていたことによる。

 

 でもそれちゃんと副作用もあるというか。

 

 いや~いろいろありすぎて訳分かんねえっすよ、とかカッコつけて言っていると、最初は冗談だったのに本当に訳が分からなくなってくることがある。

 

 気を付けよう。

 

 訳分かってるから。

 

 

②考えるためか、考えないためか

 

 若いときとか、人生の始まりの方では。

 

 分からないことが多い、どうしてどうして、という内発的な衝動によって本を読んでるんだけど。

 

 大分年取って大人になると。

 

 考える材料を得るためではなく、むしろ考えないために本を惰性で読んでることに気がついたりして、おや、と思って立ち止まったりすることが増えてくる。

 

 どういうことかというと、ただ自分の不安に同調してもらうためだけとか、焦りに意味を与えてもらうためだけとか、そういう動機で本にしがみつくというか、考えないために本を頼りにしたり、ということが出てくるのだ。

 

 沢山読んできて、自分もいろいろな経験をして、当たり前だけど関係性が変化したのだ。

 

 意識的に、自分で考えるということを取り戻し、いやそれでもなおここは考えきれないな、というところに、プラスアルファで読書が乗っかってくる、という形を作りたい。

 

③善悪に対する美意識

 

 愚痴って結構一般社会で当たり前に使われる。

 

 しかし私は、たとえ自分が被害を実際に受けていたとしても。

 

 相手を悪者に仕立て、こちら側を圧倒的な善に置き、そうすることによって「善側」で連帯感を作る、という一連の構図が生理的に受け付けないので、やらない。

 

 愚痴をやらないのは、人の悪口を言うとテンションが下がるからなのだと自分で思っていたが。

 

 本当はそういう簡単な善悪の構図を作って連帯する、という仕組みが苦手だったのだ。

 

 私は悪くないよね、あなたは私の味方だよね?

 

 うん、誰が何と言おうとも私は完全にあなたの味方だよ。

 

 というコミュニケーションの形を取るのがおそらく家族でも友達間でも恋人間でも当たり前なのだろうが。

 

 俺はそんなに無邪気にあなたを私自身を、善だけとして受け取れない、と考えてしまう。

 

 相手に加害性がある、それは修正されたり場合によっては罰されたりしなければならないのは分かる。

 

 それはそれとして、別に私もあなたも無邪気に善ではない。残酷さも、冷酷さもある、と常から思うので。

 

 完全に自分たちを善側に置いて安心するコミュニケーションはしんどい。

 

 それは嘘だな、と思ってしまう。

 

 愚痴が苦手なんじゃなくて、無邪気な善的連帯が苦手。