自分を可哀想がるのが段々難しくなってきた。
もちろん比喩ではあるが、自分という人間を通すために、人を刺し、血をだらだらと流させた経験が増えてゆくと。
どうして私だけがいつもこんな目に遭うの、という内的な声が、鳴りを潜めるようになる。
というか消える。
人を刺し、血を流させた経験が増えれば増えるほど。
こいつあ、いつ刺されてもおかしくねえ、という覚悟もどんどん深くなる。
もう、とっくに私の生は綺麗事ではない。
人の恨みや憎しみを、複数買ってきている。
刺されて、諸々のことが突然ぶった切られる、ということも前提に容れて、生きていくのが当然だという気分だ。
あなたは加害をしてましたよね、という問いに対して、一切の言い訳をしないこと。
その通りだから。
他に何か言うこともないから。
せめてじゃあ、今後の加害をやめようか、とは私は考えない。
私は、それが滅びの道に通じているとしても、自己の業を、私という人間を、通すときは通す。
命をそこにあけひろげて。
納得いかない場合は刺してもらって大丈夫です、という気持ちで。
私を通すときは通す。
喧嘩をする。
ただしむやみやたらにするのではなく、必要なときだけ。
そして、実情は喧嘩でも、大人の喧嘩のマナーとして。
低姿勢、丁寧な言葉遣い、誠実さ、は崩さない。
声を荒げて、暴力をふるって喧嘩するのは子どもの喧嘩だ。
静かに、礼儀を保ちつつ、刃を入れる。