<3969>「所感(372)」

 得意なことをやって。

 

 無理しなくても積み上げられることを見つけて積み上げて。

 

 人生はそれで良いはずなんだけど、それだと、同時並行で「だから何?」感も積み上がる、ということを2日前くらいに書いた。

 

 お金も正直、有効利用しているときもあればそうでない場合もあって。

 

 ただただ貯まっていくのが怖いから、それを破壊するように、捨てるように使ってしまうときがある。

 

 お金さえ減れば良い、みたいな感じ。

 

 

 生きていると避けられない理不尽のひとつに。

 

 積み上げて積み上げていった先が、老いと死であるというものがあると思う。

 

 ベンジャミンバトンみたいな、ありえない展開ではあるけど、積み上げて積み上げていった先が、逆に若さと生なら、人はそんなに積み上げに関して、「だから何?」感を抱かないのではないか。

 

 今は老いていて死に近いけど、積み上げていけばこの先には若さと生が待っている、と感じられれば、人は喜んで積み上げに勤しむだろう。

 

 けど実際はそうではない。

 

 積み上げて、できるようになったことが多くなったり、無理しなくても良くなったり、お金も蓄えられたり、という先に待っているのは、身体が動かなくなるという事実と、その延長としての死なのだ。

 

 これに触れて、個人差はあれど、誰でもおかしくならないはずはない、と思う。

 

 じゃあ何のためにこれは今、順調に積み上がっているんだ、という疑問と無縁でいるのは相当難しい。

 

 

 人には建設的な部分と破壊的な部分が必ずある。

 

 破壊的な部分が必ずあるのは、積み上げの先に待っているのが老いと死であるという事実によるところが大きいと私は踏んでいる。

 

 だから日々死なないように、おかしくならないように、何か別の方法で、小さく死ぬことによって凌ぐのだろう。

 

 依存がそれだ。

 

 自分を、致命的にならないところで破壊すること。

 

 破壊の仕方は人それぞれだが、私はつい最近まで、それをセックスやそれに伴うお金の浪費に求めていた。

 

 しかしまあ、使いすぎて効果が逓減してきた。

 

 破壊の、まだマシな方法って何だろう。

 

 私は今、それをトライアスロン等に求めようかと思っている。