段々、被害よりは加害の方に興味関心が向くようになってきた。
良いおもいをし切ったり、被害者ムーブをある程度やり終えたからかもしれないが。
その興味は、暴力を振るいたいとか、罵詈雑言を浴びせたい、ということではない。
そうではなくて、加害の側に、つまりプライベートだろうがパブリックだろうが、上の立場になって、否応なしに加害の立場に立たされた人間の、その生き様の方にこそ関心が向くようになってきたのだ。
私は自分でとっくに覚悟を決めたつもりだった。
それは、生きていくにあたって、今日死んでもいい、今日が最後の日になっても大丈夫なように一日一日を生きていく、という覚悟だ。
しかしどうも、覚悟を決めたはずなのに、まだ揺れがあった。
そして、偶然『道は開ける』を読んでいて、最悪の事態を直視せよ、という教えに出会い、気がついた。
私にまだ揺れがあった理由。
最終的な覚悟というのは、自分が死ぬことではない。
そこに故意はなくとも、生きている以上、人を、損なう可能性があること。
端的に言えば、殺す可能性もあることを、受け容れることだった。
私が、危険な仕事に深く入っていく、車を操作する、部下を持つ、という未来に対して、まだおそれを残していたのは、否応なしに加害の立場に立たされる、あるいは立たされる可能性があることに対する恐怖感だったのだ。
それを直視することが、最終的な覚悟。
そうなる未来も含みながら、一方で、そうはならないようにベストを尽くす、という生き方が今後は必要なのだ。
親鸞さんも言っているが、人間は、そこに巡り合わせがなければ、人ひとりだって殺すことなどできやしない。
しかし、何の巡り合わせか、数万、数百万単位で人を殺す可能性をもまた持っているのが人間であるということ。
その不思議な事実を受け容れる覚悟。
加害でしかありえない立場に立って、どうマシでありえるか。
どうジェントルでありえるか、というのが、大人の課題であり、これからの私の課題である。
ただ何も言わない、怒らないのは、私の場合優しさではなく、加害の立場、つまり上の立場、力のある立場を引き受けることが、こわいだけなのだ。