なぜ定型発達者が本質にたどり着く前にわざわざ心を通わせるかと言うと、それぞれの異なるコンテキストのすり合わせならびに同胞意識の確認作業を受容にたどり着く前にやる事が人の営みの本質だからで、発達障害者はこれを3段飛ばしでやるから合う時は凄い合うし、駄目な時は本当に破綻するのだと思う
— 高須賀とき (@takasuka_toki) 2025年12月12日
幸い、ギフトというか、お金的にその余裕があって。
一回、人生のなかで性欲及びセックスに振り回され切る、と決めて。
性欲やセックスに振り回され切ってみたんだけど。
自分という人間の、前から漠然と分かっていた部分と、今までは分からなかった部分がそれによって見えてきて。
だいぶ全体像の輪郭がくっきりとしてきたので、自分のためにまとめておく。
まず、私は人の好き嫌いがないというか、誰でも平気な代わりに、そんなに強烈な好きもない、と思っていたのだけど。
それは、いろんな人が入り混じる社会を上手く渡ってゆくために身につけた社会性のなせる技で、上辺も上辺のこと。
本当は、好きな人がいないんじゃなくて、同性にせよ、異性にせよ、好きだ、と感じる範囲が、ものすごく狭い人間なんだ、ということが理解できた。
上記、高須賀さんの引用じゃないけれども、程度問題的に障害と呼べるのかどうかは定かではないとして、多分私は発達障害気質の人間ではあるのだと思う。
というのも、上記引用のように、私は、徐々に心を通わして、という過程を踏んで、深い関係を人と築いていったことが一度もない。
じゃあ今まで誰とも深い関係を築けていないかというとそうでもなくて、それが同性であれ異性であれ、深く付き合える関係になれる人は、もう、初日で、もっと言えば初日の数十分で、何故かは分からないが感覚的にバチン、と分かってしまう。
それで、推測だけどそのバチンと分かる感覚自体は、相手も同じものを持っている人だからこそ、起こる感覚なのだと思う。つまり相手も同類なのだ。
今でも、高校の友達と会って、何故我々は仲良くなれたんだろうね、という話になると、ただ一言「分かってたから」というセリフが誰からともなく漏れることがその証拠のひとつとなろう。
逆に言えば、その初日の数十分で「分かる」というバチンとした神経がビリビリと走らない相手とは、その後徐々に時間を掛けて深い関係になることは、ない。
まずありえない。
それは、引用のようにおそらく普通の人間の当たり前とはぶつかる。
ということは、私の性質をそのまま社会上に出せば、まず上手くはやっていかれないのが明らかであるということだ。
だから、私は、別に人を特別好きも嫌いもしない、どんな人間でも大丈夫な人間性、言ってみれば別の人格を、徐々に完成させていったのだと思われる。
振舞っているうち、それは本物のようになり、私は、自分には人が好きという気持ちがないのだと誤認するようになっていった。
一方で、性欲はある。それに強い。
上でも、下でも、よっぽど年齢が離れていなければ、おそらく誰とでもまぐわうことができる。
人のことが好きだという気持ちがないのに、それとは裏腹に女の人はほぼ誰でも気になる。
だから、私は、ほとんど皆のことが好きなのだ、そうでなければ、私には性欲しかないのだ、と自分を解釈するようになった。
しかし、前述した、神経がバチンと走る、「分かる」という感覚を抱かされる人、そんな人は人生でほとんど出会ったことがないのだが、やっぱりどこかにはたまに存在していて、そういう人にたまたま出会ってしまうと、皆のことが好きだと思っていたこと、自分には性欲しかないと思っていたことは、全くのフェイクであったことを思い知らされることとなる。
私には性欲があり、それはほとんど全ての女の人に対して反応する。
それは、性欲がある限り、終わらない。
しかし、それは好きという問題とは一切関わりがない。
誰でも好きで誰でもオッケーなのではなく、それは性欲の強さで。
感覚的に好きと分かって、深い関係になれることを瞬時に確信できる相手というのは、たまには居るけど、生きていてほぼ出会うことはない、だから自分の好きの範囲に入る人というのは、普通の人と比べて極端に少ない、という方がより実相に近いのだ。
これが分かって、私が、モテるモテないという問題や、女の人を口説くという問題に、どう興味を持って、社会の輪の中に入っていったらいいのか、どう関わっていったらいいのかが全く掴めなかったのも、今になってようやく分かるようになってきた。
つまり、相手と会って初日に、瞬時に合う合わないが感覚レベルで分かってしまう私のような人間は、そのビリビリを感じなかった相手にモテたとしても、全く意味がないのだ。
普通の人はお互いに段々興味を持って持たれてでそこから心を通わせて深い関係になるのだろうが。
私の場合、初日にその感覚が走らなければ、生涯深い関係にはなれないことが明らかなので、そういう人からモテても、端的に言えば何も起こらない。
また、そうやって感覚的にビリビリくる相手は、相手も同様にこちらに対してビリビリ来ていることが大概なので、口説き落とすという問題自体が、まず発生しない。
だから、モテるも、口説くも、自分のなかでは存在しないというか、零なのだ。
それを、どうやって同級生と、さも自分にもよく分かるかのように話すのかには、昔は苦労した。
今は、自身そういう部分がごそっと抜け落ちた人間なのだ、ということが分かっているから、悩まなくて済んでいる。
こっから先、セックスのような遊びが零になることはないと思うが、段々また、ただの性欲は自慰で解消される方向に回帰していくことと思う。
そして、自分が人を好きになる範囲は、常人より明らかに狭いことを認識して生きること。
仮にどこかで偶然にビリビリくることがあっても、そのとき自分がどう動くかはそのときになってみないと分からないし、そんな出会いがなければ、社会をやりつつ、自分の仕事を淡々と行うだけである。
という現状認識です、長くなりました。