<3834>「所感(305)」

 おおとりあえず『劣等感はあなたのせいではない』を読み終えたけども。

 

 読んでみて、人格を再構成するため、良き生を送るための動きってのは、結構書いてある通りのことをもうやってるかな、って印象だった。

 

 私はだからその前段階の、幼少期が不幸で、人とのふれあいというのを育めない環境で育ったってことだけを、ずっと認められなかったんだな、って感じ。

 

 なんか嫌なことがいっぱいあったはずなのに、不幸な育ちだったって認めるのは、やっぱりどこか親に申し訳ない気がして。

 

 なんかそういう変な気遣いとか遠慮みたいなもんは最後の最後追い込まれるまで引っ掛かり続けるんだな。

 

 この本がその止まってる背中を後押ししてくれてよかった。

 

 

 

 んで、それが認められたら、それを引きずらないで生きていくってのはやっとあなたの責任だと。

 

 それを認められたうえで、なおその不幸を手放さないなら、そっから先の不幸はあなたの責任だよ、って話があって。

 

 よし、先行くか、となった。

 

 

 スーパーマン願望の話とかも出てきて、うわ~となった。

 

 私は談志師匠に影響を受けて世界一を目指すとか粋がって言ってるけど。

 

 それも神経症の症状のひとつなんだってのがバリバリって身体に響いたね。

 

 まあその看板をわざわざおろす必要もないけれども。

 

 一番健康的なのは、焦燥の出ない状態というのをバロメータにして。

 

 夢は大きく、やることは小さく。

 

 つまり、夢が大きいからといって、毎日何か壮大なことをやるわけでもなく、大口叩く訳でもなく、淡々と鉛筆にふれあっていく。

 

 そのふれあいのなかで、結果的に壮大な場所に着いていたらいいな、というぐらいでいいのだ。

 

 結果的に着いてなくてもいいのだ。

 

 あ、これ、自分で昔書いているけど、清張さんの『或る「小倉日記」伝』ですよね。

 

 過程のなかを生きるっていう。

 

 ここに辿り着くか・・・。

 

 もう先に正解を知ってたじゃない。いやだわ。

 

 誰かに優越するためではなく、自分がどこまで行けるかを、穏やかに、時には苦しみながら、見つめていく旅に居る、という意識を持つ。