生きていく上で、大分諸々の恥ずかしさは克服してきた。
度胸を試したり。
自分が惨めな思いをする場所をあえて探ったりして、どんどん恥をかいた。
ただ、そうやって恥を克服していっても、最後の最後、魚の小骨のように、喉にささったまま取れない恥が、ひとつしつこく残っていて。
一体これは何なんだとしばらく分からなかったのだが。
それは、社会をやらないと決めて生きてきた若者の私に、現在の私が睨まれたときに感じる内的恥だった。
若者の私は、社会に馴染めないことを確信しており(まあ歳とってみればそれはただの勘違いだったと分かるのだが)。
例えば坊さん、落語家、芸人、作家、というような、いわゆるアウトサイダーにしか共感できない生を送ってきた。
それがいまや、適応し、社会をまあそれなりに上手くやっている自分が居る。
しかし上手くやっているその内部で、若い自分という、それなりの年月の重みが、こちらをじっと見詰めている。
お前は、社会をやれない、やらないはずじゃなかったか、と。
そういうときに私はいまだに恥ずかしさを覚える。
私に残った、恥ずかしいと感じる最後の線がそれかもしれない。
でもこれはいずれ、和解する感覚がある。
かつてアウトサイダーに見えていた人たち、世界にも、ちゃんと社会があるということを理解し始めているのも大きい。
どこで過ごそうが、人間が、社会以外の場所に出ることはまずないんだ。