<3806>「所感(291)」

 ひねて、ひねて、ひねてきた人間が。

 

 怪我をし、削られ、痛い目を見て。

 

 余計な虚飾をはねて、最後に残った小さな芯が。

 

 スポ根さながらの、暑苦しさ。

 

 泥臭く行くという考えだった。

 

 どこか、本気になったり。

 

 やりすぎたり。

 

 懸けすぎたりするのは、恥ずかしいという意識が。

 

 どこかにまだ小さくは残っているが。

 

 それでもほとんど消えてしまった。

 

 私は死んでもやりますよ、なんて。

 

 10代や20代の私からは絶対に出てこない言葉だ。

 

 でも今はあまり恥ずかしさも感じずにそのように言ってしまう。

 

 辿り着きたかったり向上したかったり、という気持ちに。

 

 真っすぐに向き合うために多分30年以上の時間が必要だったのだろう。

 

 それだけ恥ずかしさというのは大きな存在だった。

 

 恥ずかしい場面を山ほど経過すると。

 

 もう恥ずかしいとかはどうでもよくなる。

 

 行くだけ。私は行くだけ。