前までは、練習が必要なもので、でも上手くできないものに関して。
やるのがこわくて、出来ないという事実に向き合うのがこわくて、冷や汗をかいて、手を出すのが遅れるという愚を犯してきたのだけど。
段々こう歳を重ねて、自分がこう複数になりつつあるというかの影響もあって。
冷や汗が練習量や着手の遅れをもたらしてるとしたら、それってただただ邪魔なだけじゃね?
と冷静に自分にツッコミをいれられるようになった。
んでそのおかげでちょっと練習開始が早くなったし、量も増えた。
良いこと。
なんかそれで野球のノックとかを思い出してた。
もう中学とか高校くらいの、現役半ばから終盤にかけては。
ノックってミスろうが成功しようが何度も何度も上手くなるためにひたすら受けるだけって感覚だったけど。
最初からそうだったっけって思い返してたら、小学校の低学年ぐらい、野球始めた頃は本当ノックとか嫌で嫌でしょうがなかったのだった。
何で何回やってもできないって分かってることを、繰り返し繰り返しやらされて、怒られて。
なんだこれ、ってちゃんと思ってた。
冷や汗かいてたし、べそかいてた。
でも、できないに決まってるのに何で毎回これやらされるんだって思ってるうち、ある日の練習で。
エラーしたら脱落式のアメリカンノックで、最後まで残って優勝した。
全然チーム内でも下手なままだったし、偶然も多分にあったんだけど、そういうことが起きた。
時間が経ってから、ちゃんとじわじわ嬉しくなってきたんだけど。
優勝直後に思ったのは。
なぜだ、と、いつからだ、のふたつ。
なぜできるようになってるのかにつき、喜びよりも先に戸惑いが来。
いつからその変化が私に起こっていたのかにつき、思い返しても全くどこだかが分からなかった。
野球から学べたことが数多あるなか、今日のエピソードからはふたつ。
思い上がることの意味のなさと。
自分で自分の能力を決めることの意味のなさ。
スポーツのような、具体的な身体操作って、いくら思い上がろうとしても。
例えばノックだったら、足が遅くて追いつかないとか、捕れないとか、投げれないとか、今の実力がはっきりと目に見える形で現れてしまう。
言い訳が一切利かない。
できないものはできないという事実を真正面から突き付けられる。
ただ、その事実から、私は守備が一生下手で、一生できないと決めつけることもまた意味がない。
具体的な身体は、自分の意識で把握できる範囲を超えて、学習している。
学習し続けている。
すると、できないとイメージしていたもの、決めつけていたものが、自分でも気がつかないうちに勝手にできるようになっていたりする。
これは自分の想像した領域、速度を、圧倒的に上回っている。
自分の能力の伸びは、自分では把握できない。
つまり答えはひとつ。
ステイフーリッシュ、ノックを沢山受けよう。