<3712>「所感(246)」

 本当にこわいのは。

 

 興味がなくなってくることじゃなくて。

 

 興味が元々そこまでないんじゃないか、ということに、心底気がつくことの方で。

 

 

 よ〜く集中してドラマ見てるよね〜と言われ、画面を凝視していたことに初めて気がつく私。

 

 いろいろドラマとかアニメとか見てるけど、特にどれにもハマってないよね、と言われて、まさにそうであることにハッとする私。

 

 異常な集中力を発揮するけれど、そのどれにも興味がない、という、幼き日の私のシーンの混ぜ合わせが、あまりにも自分というものの核を、はっきり表しすぎているような気がする。

 

 先日も書いたけど、クラスメイトのような、近くで私を観察していた人に、私が何の楽しみを抱いているのか全く分からない人として見えていたとしても、それが素直な、当然の感想だろうという気がしてくる。

 

 私は、おそらく、心底から何かが楽しい訳ではない。

 

 対象となる人や物に、熱中できる人に対して感じる、自分はああはなれないという感慨と、羨ましさ。

 

 私は、おそらく、心底から何かが楽しい訳ではない。

 

 何にも芯からはハマれないからこそ、異常に集中するのではないか。

 

 ここで起きていることは、楽しく、熱中に値するはずのものだが、それは一体何なんだ、と。

 

 集中している。

 

 でも、そんなものは見つからない。

 

 熱中という状態は、そんなメタな疑問とは無縁のところにある。

 

 言語との近さは、この不全感との近さと同じことだ。

 

 言語は、対象から隔たっている。

 

 言語への苛立ちは、この不全感への苛立ちだ。

 

 何故、私は熱中する訳でもなく、常に遠いのだ、という。

 

 物書きの宿命というのは、常に砂を掴んでは掴み損ねているようなものなのかもしれない。

 

 人生の実感としては一番砂のイメージがぴったりくる。

 

 私が髙村薫さんの姿を見ていつも思うのは、その全体があまりにも砂のようにかわいている、ということだ。