<3663>「所感(223)」

 社会人ナイズドが、完了した、というか始まったのか。

 

 完了の始まり。

 

 その間、いやいややってようが、意気込んでやってようが、十年、二十年と続けているものって、適応しないでいるのが逆に無理なんじゃないか。

 

 そりゃ、今だって仕事に行くの面倒くさいとかやだとかはある。

 

 そうじゃなくて、仕事をしている自分を心底受け容れられるか受け容れられないかの違いが社会人ナイズ、されているか否かの違いかなと今の私は思っている。

 

 例えば休日ゴロゴロしてる、ソファで寝てるだけってのは、寝足りないってのが本質じゃないはず。

 

 だって休み前日も普通に夜寝てるのだから。

 

 そうじゃなくて、その日、「仕事がない」「仕事じゃない」から寝てるんだ。

 

 それだけ社会、ひいては仕事というものに適応し切ってしまったということじゃないのか。

 

 仕事もないのに動いても仕方がないという究極の、行き切った形。

 

 仕事人間が、と他人を馬鹿にすることは簡単だが、人生のほとんどの時間、仕事をして過ごしてるのに、そこに一番適応した姿にならないって、まず起こり得ないのではないか、起きても相当稀なケースなのでは、と思う。

 

 年数が重なれば重なるほどそれはそうだ。

 

 

 私が最近、自身の若者の終わり→中年の始まりを意識するのにこれもひとつ大きく絡んでいる。

 

 仕事をしてる自分を、心のどっか深いところでは承認していないのが若者期で、何にも思わなくなってからが中年期という、自分の分け方。

 

 その、何も思わなさを得た代わりに、休日の自分の時間のかけがえのなさみたいな感性も、もうなくなった。

 

 まだ力が有り余ってるから休日にただ寝てるだけとかはないけど、じゃあ起きてて何するかって今度はプライベートサイドの仕事を粛々と進めてるだけ。

 

 仕事がなくなってほしいという人格が、どこかに消えてしまったらもう私の中で私は若者ではない。