<3648>「所感(216)」

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 昨日のことがえらい大昔に感じることがありませんか。

 

 私はしょっちゅうそうで。

 

 どうもこれはおかしいと思ってたら、まあどういう理屈かは分からないけど上述のような記事、話があった。

 

 なるほどねえ、なんとなく感覚に合うというか。昨日が大袈裟に言うと1年前のような感じになるってこと。

 

 この情報量の多さに対して、手=身体の習熟に要する時間ってのは、大昔と比べて身体がそんなに変化していない以上、そこまで変わってないはずで。

 

 つまり、何かで一丁前になるために10年の時間をかける/時間がかかるなんてのはごくごく当たり前のことなんだけど、体感時間はそうはいかなくなってるというか。

 

 これまた大袈裟に言うと、情報量的には10年っていうと、江戸時代の3650年分みたいな(合ってるかな?)、途方もない量になる。

 

 そうすると、10年同じことなんてやってられっかよって感覚は、現代においては飽きっぽいという問題を越えている可能性がある。

 

 受け取る情報が多くなりすぎて、たった10年でも途方もない時間を過ごしたような感覚になるはずだから。

 

 このギャップを埋めるには、馬鹿になるしかないというか、意図的にボーッとするしかないんじゃないか。

 

 それこそ、鈍刀の方がよく切れるっていう、またまた吉本さんの話じゃないけれど。

 

 情報に対して全てをまともに受け取っていたら、何かを時間をかけて磨き続けるということができなくなる。

 

 

 例えば、何かをやるに際し、目標を3カ月と設定したとして。

 

 3カ月達成まであと何日、何日と常日頃数えている場合と。

 

 1日1日、そんな3カ月がどうとかは一旦忘れて夢中になっている場合とでは。

 

 前者の方が目標日までの時間が遥かに長く感じることだろうと思うけど。

 

 それは、3カ月という目標に対する情報の摂取を、意図的に増やしてしまっているからではないだろうか。

 

 後者の、目の前のことに夢中になっている場合の方が、3カ月という期間があっという間に感じられる訳は、3カ月にまつわる情報の摂取を、いたずらに増やしていないからなんじゃないか。

 

 逆説的だけど、遠くまで行きたいのなら、遠くまで行きたいと思っていることを、結構な時間忘れてしまうことが大事だ。

 

 それで完全に忘れてしまったら意味ないから、時々思い出しとく必要はあるけれど。