<3608>「所感(196)」

 中年の危機っぽさを感じたり、興奮してやっていたことに感動しなくなって飽きたり。

 

 それはどこかで、予期不安がなくなった、あるいは少なくなったことや、現象に対する過剰なポジネガの意味づけをしなくなったことに通じているような気がする。

 

 ある意味で、それらがなくなりとても楽になった。

 

 次に起こることが私にとって良いことなのか悪いことなのかを予め知ることはできないし選ぶことも出来ない。

 

 また、この出来事にはきっと良い意味/悪い意味があったはずなんだ、と考えてもそんなもの現実の流れには何の関係もないことを腹の底で知る。

 

 その結果、私も、他者も、環境も、そこで現象しているだけだという実感に近づき、とても呼吸が楽にできるようになった。

 

 一方で、それら予期不安や過剰なポジネガの意味づけが、私のなかで現実とは関係のない妄想という、一種の物語を形成するのに貢献しており、私はかつてそこにも生きていた、いやむしろそこの方にこそ重きを置いて生きてきたことにも気がついた。

 

 それらがなくなり、楽になった反面、何の物語もない生身の世界にポンっと放り出されたような形で、今現在ちょっと呆気にとられているのだ。

 

 世界はこんな単純な場所だったかと。

 

 

 虚と実の交わりについてもまた改めて考えている。

 

 人間のやり始め、いわゆる青春期は、虚の方に傾いた。

 

 いわゆる文学であり音楽であり詩であり、映画であり。

 

 それらそのものがものすごく好き、というよりかは、自分が早々に実人生に見切りをつけ、こんなものいつか捨てようと思っていたからこその、虚への傾倒、過剰なまでの傾倒だった。

 

 その後、自分が立てた目標も果たし、実人生のなかで動くのも、下手は下手ながら多少こなれてきた後は、手を動かす仕事や、セックスや、そういう生身が大きく汗をかく方へ、嬉しい方へ流れた。溺れた。

 

 溺れてのち、実にも限界があること、実だけで全てを賄える訳ではないことを知った。

 

 実だけで全ての手ごたえを得ようとしても、実は単純で、気持ちが良くて、けどそれだけ、という世界であった。

 

 文学がある意味や音楽、絵画、映画がある意味など、私に理解できたわけではないが、今、ゆっくり虚の方にも少し関心が戻ってきているのは確かである。

 

 人間としての道筋を考えるとき、諸先輩方の動きなども見て思うのは、虚に傾きすぎても、実に傾きすぎても、どこかで破綻する、ということである。

 

 虚と実、お互いがお互いを牽制し、活かしてこそ、生は張る。

 

 そういうことを今は思っている。

 

 実に傾きすぎた身体が今少しずつまた虚を欲している。