<3559>「所感(172)」

 もっと若い頃は、危険な道のりを逃れることこそが自由だと思っていた。

 

 何も責任がないところでだらだらと寝ている、遊んでる、みたいな。

 

 というか、そうでもしないと、頭の切り替えが上手くできないまま、四六時中危険に対する恐怖の意識にとらわれて、上手く生きていけないじゃないか、と思っていたのだ。

 

  

 翻って現在はというと。

 

 どのルート、どの人生を選んでも、ある程度の危険からは逃れることができないことをまず悟り。

 

 それから。

 

 危険なときは危険モード。安らぐときは安らぐモードと、頭の切り替え、気分の切り替えが楽にできるようになってきた。

 

 ので、やみくもに危険な人生を生きる必要はないけれど、取るべき所ではむしろ危険を取るという人生が選べるようになってきた。

 

 

 全てから逃れてじっとして生きても。

 

 その選択にはその選択特有の危険が伴う。

 

 危険から逃れようとした若年期から、何の危険を取る判断をするかという、壮年期への入口に来ているのかな、と思う。

 

 

 思えば幼い頃、親を含む大人の、怖い顔真剣な顔から、柔らかい顔への変化があまりにもスムーズであることに、いつも驚いていたような記憶がある。

 

 今は私がそのスムーズな切り替えをするようになっている。