悪魔を、手なづけること。
私は普段ボクシングを見ない。
格闘技全般も、見なくなって久しい。
それでも6月8日は、ボクシングを見た。
中谷潤人というチャンピオンの、穏やかさと静かさに魅せられたからだ。
私は中谷さんの試合を見たことがない。
喋っている姿と練習している姿しか、知らなかった。
その姿から想像するに、試合と言えど穏やかに、冷静に事を運んでいくタイプに見えた。
リングに上がった中谷さんの目を見て、その想像が間違っていることに、早々に気がついた。
人を殺す目をしている。
私が思ったのはそういうことで。
中谷さんが胸のなかで本当は何を思っていたのか、それは知る由もない。
殺すだなんて、かけらもよぎっていないかもしれない。
ただ、私はそこに、その目に、自分の芯の部分、1番深いところで本当にやってやろうと意識していなければ出ない、鈍い光を見た。
目が飛んでいる。
まだ格闘技を見ていた頃、初めて試合を目の当たりにした山本KIDにも、そういえば同じことを思った。
ボクシングのことも、西田さんのことも、私は詳しく知らないのに、これでは西田さんの勝ち目がないと、私は勝手に思った。
西田さんはちゃんとボクシングをしている。
私は勝ち目がないと、勝手に考えた。
誰でも狂気を抱えている。
私は6月8日の試合を見て、中谷さんを見て、自分の狂気との向き合い方を考えた。
考え直した。
狂気があるのに、全然狂気のないフリをする、それは嘘の在り方で、徐々に力を失う。
自分の狂気と向き合えず、狂気を殺してしまう。
かといって、狂気を普段から全面に出せば、社会にも自分にも迷惑な在り方となり、これもまた狂気が死んでしまう。
自分の1番芯にある、狂気の核の部分。
これを、大切に保持し、育てながら、定められた場所のみにおいて、解放すること。
定められた場所のみにおいて、全解放すること。
自分のなかの悪魔を、手なづけること。
私が中谷さんに見たのは、その手なづけ方、コントロールの仕方の完璧さだった。
普段のあの穏やかさ、静かさは、そのコントロールの仕方の、完璧さの証なのだと、私はまた勝手に考えていた。