<3531>「所感(158)」

 悪魔を、手なづけること。

 

 

 私は普段ボクシングを見ない。

 

 格闘技全般も、見なくなって久しい。

 

 それでも6月8日は、ボクシングを見た。

 

 中谷潤人というチャンピオンの、穏やかさと静かさに魅せられたからだ。

 

 私は中谷さんの試合を見たことがない。

 

 喋っている姿と練習している姿しか、知らなかった。

 

 その姿から想像するに、試合と言えど穏やかに、冷静に事を運んでいくタイプに見えた。

 

 リングに上がった中谷さんの目を見て、その想像が間違っていることに、早々に気がついた。

 

 

 人を殺す目をしている。

 

 

 私が思ったのはそういうことで。

 

 中谷さんが胸のなかで本当は何を思っていたのか、それは知る由もない。

 

 殺すだなんて、かけらもよぎっていないかもしれない。

 

 ただ、私はそこに、その目に、自分の芯の部分、1番深いところで本当にやってやろうと意識していなければ出ない、鈍い光を見た。

 

 目が飛んでいる。

 

 まだ格闘技を見ていた頃、初めて試合を目の当たりにした山本KIDにも、そういえば同じことを思った。

 

 ボクシングのことも、西田さんのことも、私は詳しく知らないのに、これでは西田さんの勝ち目がないと、私は勝手に思った。

 

 西田さんはちゃんとボクシングをしている。

 

 私は勝ち目がないと、勝手に考えた。

 

 

 誰でも狂気を抱えている。

 

 私は6月8日の試合を見て、中谷さんを見て、自分の狂気との向き合い方を考えた。

 

 考え直した。

 

 狂気があるのに、全然狂気のないフリをする、それは嘘の在り方で、徐々に力を失う。

 

 自分の狂気と向き合えず、狂気を殺してしまう。

 

 かといって、狂気を普段から全面に出せば、社会にも自分にも迷惑な在り方となり、これもまた狂気が死んでしまう。

 

 

 自分の1番芯にある、狂気の核の部分。

 

 これを、大切に保持し、育てながら、定められた場所のみにおいて、解放すること。

 

 定められた場所のみにおいて、全解放すること。

 

 自分のなかの悪魔を、手なづけること。

 

 私が中谷さんに見たのは、その手なづけ方、コントロールの仕方の完璧さだった。

 

 普段のあの穏やかさ、静かさは、そのコントロールの仕方の、完璧さの証なのだと、私はまた勝手に考えていた。