<3419>「所感(104)」

 好きを軽く撒けてた時期っていうのはあって。

 

 意外とそういうお調子乗りが元々得意ではあった。

 

 ただ、若い頃に振舞いで失敗したのは、そのお調子乗りの結果、自分が想定していたより以上に受け容れられて、そんなつもりはないから何も返せないという一連を作ってしまったというところで。

 

 

 しかし今振り返ってみて思う。何にもしてなくても好かれるってことはあり、そうしたら何か好きを撒くようなことをしていたら尚更好かれが発生するのはこれ当たり前のこと。

 

 そうして好きを撒いていたら、全部には応えられないっていうのも当たり前のこと。

 

 私にはただ、好きにさせるっていうこと、迂闊な発言で相手を本気にさせるっていうことの加害性、暴力性を受け止める力がなかったんだ。過去。

 

 今はある。その力が。

 

 そして、その暴力を行使する覚悟と意思がある。

 

 何故か。

 

 私はこの社会のなかで積極的に生きると決めたから。

 

 好きになる好きにさせるっていうこの双方向の、暴力性を受け止めるまでの闘いだったんだな、この30年以上。

 

 生きるということは自分の暴力とともに暮らす覚悟のことを言うのかもしれない。