<3363>「所感(77)」

 火の燃し方を考えるのは生き方を考えること。

 

 ピークを見極めようとするのは死に方を考えること。こと?

 

 悲惨な事故や、病を人類全体で克服し得るように工夫したのは希望のあることだろう。

 

 そこに希望がないと言ってしまうと何か嘘になる気がする。かつて克服できなかったはずのものが克服できたら、シンプルに嬉しい。

 

 ただ、それとは別にというか、並行してというか、死ぬということが、徹底的に奪われているとも感じる。

 

 うっかり死んだり、気づいたときにはもう手遅れであったりということが、技術の進歩や、予防措置によって減っていく。

 

 ある老人の放った、多分ただの被害妄想として流されて終わってしまうだけの、

「私は徐々に梯子を外され、半人間になっていっている」

という力のこもったつぶやきが、私を離れない。

 

 あっさり死ぬことは、排除すべきこととして扱われ、どんな人も、呼吸がある限りはなんとかつなぎとめられ、弱って死ぬまで待っているしかない世界のその中心で、私は死を待つだけの半人間だと語った老人の言葉。

 

 私はその言葉をただ受け流せないでいる。

 

 どっかでうっかり死ぬ、という可能性を奪われ、老年の苦しい時間を増やしに増やしてきたこの人類全体の営みはなんなんだろう、と思うときがある。