<3329>「所感(60)」

 社会から見た自分というものは、相当に気持ち悪いということを、肯定でも否定でもなく、開き直りでもへこみでもなく、そのまま、「気持ち悪い」のまま、自身に組み込むこと。

 

 

 私にとって、人と付き合ってこなかったことは自然なことなのだが、社会の側からすれば、それはこれ以上ないくらいの、強い拒否であるということを学ぶ。

 

 それが分かるまで、私は、誰のことも愛していないことに対して引かれているのだと思っていた。

 がしかしそうではなくて、周りの人がやっているから、声を掛けられたから、ちょっと気になったから、お試しで付き合いをしてみる、という、普通の人がごく当たり前に気軽にやっていることを、この人間は今まで、一回一回丁寧に、頑なに払いのけて今ここに存在しているということなんだな、という事実に引かれているんだということが分かった。

 

 大方の人は、別に何のひっかかりもなく、まあそういうもんだから人間はと、イヤイヤとかでなくむしろ楽しんで付き合いをするだろう。

 

 そしてそうではない人も、さすがに付き合いをしていないと社会的にまずいからなんかやっといた方がいいだろうと思ってやるだろう。

 

 自分の利かん気や、業によってそれらをあくまで払い続ける人間なんて、多分ほとんど存在しない。

 

 だから、何故人と付き合っていないだけでそこまで気持ち悪がられるのか、引かれるのか、という類の私の疑問は、端的に間違いである。

 

 自分の言い分には何の理もない。

 

 社会の側から見れば、私は100%気持ち悪い。

 

 

 で、どうするかだが。

 

 社会という場で、その評価は当然であることを認め、私は、気持ち悪さを自分のなかにそのまま容れる。

 

 その気持ち悪さを見せて誇ったり、逆にヘラヘラして卑下することもしない。

 

 私は、気持ち悪い社会人だということをただ、自覚するだけである。

 

 それ以上も以下もない。

 

 私にはやるべきことがあり、到達すべき場所があるから、気持ちが悪いことを何かの言い訳に使っている時間はない。

 

 

 前までは、まだ若いから、自分を気持ち悪いとは認めたくないというか、気持ち悪くはないと信じたいという気持ちがあったが、段々それもなくなって、どう頑張っても気持ちが悪いことを真正面から認めたら、生きていることが少し楽になった。

 

 

 第一、詩で世界を取ることを考えて毎日せっせと詩を作り続ける人間が、社会的な気持ち悪さを自己の内部に含まない可能性なんて、ない。

 

 人生、良いところだけを取ることはできないのである。