この世の終わりみたいな気分って、あらかじめセットされているものだよな。
だからこの世の終わりみたいな気分になって、その気分と現状を結びつけそうになったとき、
いや、これ大学生のときもあったし、高校生のときも、中学生のときも、小学生、幼稚園?はさすがになかったか、でも遥か昔からこの気分ってあったよな
というのを遡って確認していくと、気分と現状を過度に結びつけなくてよくなるので楽になる。
いざとなったら死ぬ覚悟の話の続きでいうと。
例えば老いて動けなくなった親を見て、自分はあそこまでは生きないでおこうと仮に覚悟したとする。
覚悟したとして、しかし、ではどこが最後なのか。
おさらばする最後なのか、というのは、本当に難しいポイントで。
そんなの、明確な線なんてあるわけもなし、どこが最後だったかなんて、自分で判断できる訳もなし。
そうして、やっぱり死ねないで、同じように動けなくなる、ということは全然あり得るし、それはおかしなことでもなんでもないよな。だってここが最後だったんだなんて分からないもの。
三島さんは現代にドラマ、劇がない、大義がないという言い方をする。
そういうものがあれば、クライマックスはここでっていうのが分かるんだけどね。
劇に夢中になるのも、クライマックスがはっきり分かっていることの気持ちよさなのかもしれない。
戦時中のいつ死ぬか分からない状態が幸福だったってのは、ここがクライマックスだと確信できていたからで。
今、別にわざわざ戦争をしないで、ひとりの人間の、クライマックスって、作れるのでしょうか。
それをテーマに生きてもいいぐらいこれは難しい重い問題で、実際に三島さんはクライマックスを設定して実行したのだと思うけど、
俺の劇というのはここで最後なのかな、というのは、どの程度の確信を持てていたんだろう、っていうのは、どこかで会えたら訊いてみたいような気もする。