今からでもまだ野球が上手くなりたい、というよりは、野球ができない身体状態にいつの間にかなっていたことのショックを未だに引きずっているから練習する、が近いような気がする。
いつ招ばれても野球ができる状態の身体に置いておくのが重要で、実際に野球をするかしないかは選手でもないからあまり関係がないというか。変な過ごし方だけど。
被害者ムーブ、被害者ポジションを取るというのは、ただ妄想的な在り方であるというよりか、そもそのポジションに自分を置いておくとすごく収まりがよくなるというか、生活する自身がすごく安定する感があるのよな。だから知らず知らずそのポジションって安易に選択されがちなんじゃないかって気が、今のところはしている。
というのも、自分にも立派な加害性、加害者性が備わっていることをしっかりと見つめつつ、日々生活したり仕事したりするのって結構精神面のバランスをとるのが難しいのよ。自分が揺れて揺れてさ。
そいで、悪人に振り切ればまた反対に楽だろうけれど、別にそこまでの悪人でもないというか、ただそれなりの加害性を備えているというだけ。もちろん傷も受けるから被害者性もあるし。
まあ、善人でもないし、かといって悪人でもないし、それでも、日々は来るわけだから、なるべくいい身体状態、なるべくいい機嫌でいることを目指すのに変わりはない。
エネルギーも充溢させて。
別に関係ないんだからさ、そんなに気にし合わなくていいじゃん、表面のところでうまく関係やってれば、何でそんなに絡んでくるんだろう。
と思ってた小学校中学校時代。
周りの、距離をはかろうとする攻撃的なエラーコミュニケーションばかりを加害性だと当時は思っていたけれど、なんかそういうのやろうとも思わない、関係ないんだから表面だけでひょいひょい上手くやっといて極力関わらないで行きましょう、関心が全く持てないです、という態度自体が、中学生とかの多感な時期には、これ以上ないくらいの加害性を持っていたんだ、ということに最近気がつきはじめている。
私の加害性は主に無関心にある。
何もしてないし何も思っていないのに、何故憤慨されたり睨まれたりするのだろう、とずっと思ってきたけれど、何もしてないし何も思っていないからなんだよな。