<3287>「所感(39)」

 許せないという怒りの感情とか性欲とか、そういうものには翻弄されるもんなんだ。翻弄されたまま、やるべきことを淡々とやっていく。

 

 自分を捨てようとしている部分と、自分を作ろうとしている部分が明確に自分のなかに存在していて、その矛盾に戸惑い続けてきたけど、身体の仕組みを考えればむしろこれは当たり前のことなのだな。

 

 壊さないと生き延びられないし、新たに作らないと生き延びられない。生命はそうやって進んでる。

 だから棒に振ろうとする衝動も、意地でも取りたいものを取りに行こうとする衝動も、両方あって当たり前なんだ。否定しなくていい。

 

 

 昨日思ったけど自分がやっていることを改めて書き出してみての感慨は、いろいろやりすぎ、というところにくる。

 

 継続のため、それを無意識でもできるようにする。

 

 それは良い方法なんだけど、なんせ無意識でできるように育てたもんだから、その副作用はあって、実はいろいろやってるのに、実感としては何もやってないになってしまうという。だって無意識だから。

 

 それでなんか自分は何もやってないっていう変な妄想に入ってどんどん足しちゃう。

 

 そしてついには昨日みたいなドンガラガッシャンになる、みたいな。

 

 

 ぐいっと気合い入れて次のステップへ移るとき、遊びも勉強も仕事もって全部は出来ないし、今の職場にフルコミットしてたときとでメンタル面に違いが出るのは当たり前かな、と。今は相当精神的にはぐらついている。

 私が中心となった将来の話などされると特に。すまない。すまない。

 

 んな比べたら失礼だし私の場合はそんな高級なもんではないけど、スポーツの移籍問題とかを思い起こした。

 移籍ムーブがバレたりすると普通に干されたり、周りとギクシャクしたりするよね。

 

 だから移籍が悪だということにはならないし、皆限りある時間で自分の置き場所をどこにするかで必死だから、周りと上手くいかなくなるリスクがあろうがなんだろうが、嫌われようが、獲りにいくべきものは獲りにいく。そいで移籍は当たり前になくならない。

 

 キャリアを獲りに行くとか、セックスがとにかく好きでしょうがないとか、そういう自分のなかのどろどろした欲望、しかしどろどろしているだけ力強い欲望を、自分の中にはそんなのないですよっていう嘘をつかない。実はどろどろのどろどろなんだというごまかしようのない事実から目を逸らさない。