<3275>「所感(33)」

 父親は、まだ小学生の私に気味の悪さを見た。

 

 親というのは鋭いものである。

 

 ずっと自分の子どもを見つめているだけのことはある。

 

 私が生涯付き合っていかなければならないマイナス面に真っすぐに到達している。

 

 

 私の悪意の形には、私自身ですら気味の悪さを覚える。

 

 ぎょっとする。

 

 人間として、寒気がする。

 

 

 本当に優しい人ならば、相手に分かりやすいように、これは許せない、言われたくない、ということを小出しに表明し、相手との距離感を上手く微調整し続けるだろう。関係を続けるためにだ。

 

 だが私は、まず全面的に開いた態勢を取る。

 

 何を言われても受け容れる。相手が私のその開いた態勢に依存するような状態に陥るまで、じっと待っている。

 

 私が何も言わないのをいいことに、相手の人がどこまで遠慮なく、悪意を出してくるかを、じっと見ている。

 

 そして、あるタイミング、相手にも、きっかけが何だったのかが分からないタイミングで、急に梯子を外すのだ。

 

 今まで、全面的に受け容れていたのを、急カーブを切って、全面的な無視、拒否に切り替えてしまうのだ。相手が依存しきった後に。

 

 

 こんなのはおよそまともな人間の態度ではない。

 

 だから、変えたい。

 

 ちゃんと細かく拒否を出し、相手との間にラインを作り、そこそこの善意とそこそこの悪意のバランスで、なんとか長く人間関係をやっていくべきだ。

 

 第一、そういう人の方が付き合いやすい。

 

 どこがダメなラインなのかが一向に分からないまま、踏み込んで行ったら突然梯子を外してくる人間なんて、分かりにくくて、付き合いにくくてしょうがない。

 

 欲望をテーマにした時も書いたが、今後の人生は、より分かりやすい人間になることを目指す。

 

 でないと自分がおっかなすぎる。気味が悪すぎる。

 

 

 ただ、私のこの書く営みは、そうした底意地の悪さ、自分でもどう扱っていいか分からないほどのこの底意地の、とんでもないエネルギーに支えられているのも事実だ。

 

 自分が、小学生のときに父親に気味悪がられ、母親と祖母とにしつこさのエネルギーが凄まじいことに心から呆れられたときから、私は、この負のエネルギーをなんとかして使いこなそう、乗りこなそうとして、書いてきた部分も大いにあると思う。

 

 ただ、この書くという営みが、乗りこなすことにより多く貢献しているのか、負のエネルギーを育てることにより多く貢献しているのかは、正直分からない。

 

 実感としては、正負両面に、枝がのびてしまっているという気がする。

 

 怪物を抑えることと、怪物を育てることの両面に成功しているような気がする。

 

 矛盾するようだけど。

 

 

 ともかくすぐには無理だけど、これは危ないので、徐々に分かりやすい人間を目指すことをやめないように。こわい。