<3237>「所感(16)」

 私のなかの「分からない」、にはいくつかの種類があって。

 

 それが、「分からない」をより分からなくさせている気がする。

 

 具体的に種類と言うと、

「本当に分からない」

→これは素直にそのままの意味で。

 

「分からないと言うことのよろこび」

→本当に分かっているか分かっていないかはどうでもよくて、何かに対して分からないとすること自体によろこびが発生するという、ちょっと変態的な要素。

 

「分かることを、分からないとすることによりはかどらせる」

→これは勉強などで特にそうで、分かると思って安心してしまうとそこで進歩がなくなるので、実際は結構分かっていて具体的に動けるあるいは解けるとしても、分からないとすることにより、もっと先へ進むというか。そのために「分からない」を無理に利用しているという感じ。

→結果勉強は捗るのだが、その技術が板につきすぎて、例えば試験中も、下手したら試験に受かったあとも、「本当は分からないんじゃないか」という不安がいつまでもつきまとうのが副作用としてあるかな。

 

 

 人生が先に進むときって私の場合は必ず同じパターンで。

→分かんない、新しいことが次々に押し寄せてきてキャパオーバー。それによりぐぐぐいっと気持ちが沈み込む。

→しばらくして消化できるようになって、快適に。

→また新しいこと出てきてキャパオーバーで、みたいな感じ。

 

 そうすると段々、キャパオーバーして気持ちが落ち込んでいる状態のさなかでも、

「あ、これ前に何回もあったやつ。このあとできるようになって気持ちすーっと楽になるやつ」

と分かるからどんどん楽になってきている。

 ここらへんは年取ったことの効能というか。

 人間が年数を重ねていくことには良い要素もあるよという一例かなと思ったりする。