<3049>「所感(2)」

 社会に居て、必ずぶつかるのは自分がどういう人間なのか、という問題で。

 仕事の技能とか、何かを覚えるとか、そんなことはいつでも些末な問題だ。

 

 1日のほとんどの時間を費やす場所なのに、あんまり馴染みたくなかったり、

 皆でひとつのことに向けて盛り上がるのが嫌だったり。

 

 もう学生ではないけれど、人間が、集まって社会を作るという基本は変わらないから、社会人になっても嫌だったり、嫌いだなあと思ったりする問題は結局同じところに集まる。

 

 そも、生まれたこと自体がさびしかったり、

 存在することが悲しかったり、

 自分が存在していないといいなあ、という願いがあることから、

 噂されること自体に、それがポジティブなものであろうがネガティブなものであろうが等しく耐え難い思いを抱いたりする。

 

 こういう基本がどこまでも変わってない。

 変わってないから同じ問題にいつもぶつかる。

 

 

 それで、私は自分だけの領域で自分だけの技術を一丁前にしようと日々やってきた。

 それは書くこと。

 あまりに社会が耐え難いので、さっさと自分だけの領域で一丁前になって、社会から離れてしまおうと、そういう目論見のもとに始まった日課だった。

 さっさと社会なんかからは剥がれてしまおうと。

 

 でも、年月を重ねてきて、それは違うと思い始めた。

 社会から離れるという願いが、良い悪いではなく、現実の進行とまるで違うことに気がつき始めた。

 

 一丁前になるということは、その世界から、逆に離れられなくなるということだ。

 

 あまりに密接になりすぎてしまうと、その場所から、社会から離れられなくなる。

 いつまでも初学者効果を得ていたい。

 責任が発生する場に居たくない。

 

 だから様々な場所を転々としてきた。

 転々とすれば、またまっさらに、新しい人生を始められるし、社会からも距離を置けるような気がしていた。

 

 それは確かにそうかもしれない。

 でも、どこかで中途半端ではない状態を引き受けなければならないと思い始めている。

 

 何か目的があってではなく、ただ剥がれたいからという理由だけであちこち移っていくのは、私には空しいことだった。

 

 それを知れた。

 結局新しい場所に移っても、私が苦しむのは同じ問題で、同じところでまた剥がれたくなるんだと気がつけた。

 そうすると、私がまだこの場所でやるべきことはいくつもあるはずだ。

 

 一丁前になるというのは、その領域の一端を引き受けるということだ。

 

 社会から剥がれた上で一丁前になりたいというのは、そういう意味では矛盾した願いだ。

 

 嫌なことや、むかむかすることや、別に友達でもなんでもないし、仲良くもないけれど上手くやっていくことや、そういうことを積極的に引き受ける生の中にしか、いやむしろそういう生にはまり込んでいくことが、一丁前になるということなんだ。

 

 社会に巻き込まれないでものだけ書いている状況なんて、今の私には想像できなくなっている。

 そんな状況があったら、嬉しいというよりも、多分おそろしいと思うだろう。

 

 一端を担え。

 そこにしか生はない。