<2110>「野球を見る」

 子どものころからずっとプロ野球を見てきている。

 見てきているのだが、そこに私の時間の流れがあり、見方の変化があり、面白い。

 例えば、小学生の私なら、松井のホームランが全てであったりする。

 興奮して翌日に、次の日に、親に、友達に、話すのはそのことだけであったりする。

 凡退も、四球も、あったろうが記憶には残っていない。

 残っているのは凄まじい速度のホームランの軌道だけである。

 

 今大人になっても同じように野球を見る。

 例えば私は、山川のホームランに体温を上げる。

 ああ、身体に少年が残っているなと感じる瞬間だ。

 でも試合のあと、ホームランだけが印象に残っている訳ではもうない。

 むしろ、百戦錬磨の選手たちが、おそらく嫌な汗をたくさんかいたろう場面ばかりが印象に残る。

 打席で大ミスをかましたあとも、何事もなかったかのように次の回に、ピッチャーを引っ張っていかなければならない正捕手の姿とか。

 全く打てる感触がなくても、それでもなお打席が回ってくればそこに嫌でも立たなければならない主力打者の姿とか。

 そういうことの方が、華やかな場面よりも、むしろ苦さしかないような場面の方が気になるようになってきた。

 

 例えば9回表、3-1でリード。

 抑え投手が満を持してマウンドに上がるも、救援失敗。

 3-4と逆転されてしまう。

 チームが、お客さんが、全員が溜息をついている。

 仕事を果たせていない。

 9回裏があるとはいえ、勝てると思っていた試合が、手からこぼれて。

 落胆しかない。

 そういう場面で、切り替えるのは難しいなかで、それでもなお切り替えて、いや、切り替えきれないままで、何事もなかったかのように、まだ終わっていない9回表の打者にひとりひとり対峙していって抑えるということ。

 そのあと完璧に抑えたからといって、誰も褒めてくれない場面で、淡々と抑えてベンチに帰ってくるということ。

 そういう場面こそプロの仕事の場面だと思うようになってきた。

 なんにも面白くない、辛い、自分に腹が立つ、不愉快である。

 そういう場面で、淡々と自分の仕事をこなし引き上げてくること。

 記録的にはマイナスなものとしてしか残らないような、そういう場面こそ、プロとしての存在が問われる場面なんじゃないかと思うようになってきた。

 もちろんそういう場面が大事といっても、減らす方向で努力をしていかなければならない。

 でも、そのときどう振舞うか、どう仕事をするか、ということの方が、その人のプロフェッショナルを深めることになるのじゃないか、と思うことが増えて来た。

 だから野球を見ているとそういう苦しい場面ばかりが印象に残る。

 嫌な汗、かくんだよな、どうしても。

 そこで感情に流されない選手の身体の素晴らしさ、粘り、気魄というのを見ているし、見たいと思っている自分がいる。