ずるいという感覚

 以前、『平等』というものを書いたが、結果的に悪平等をもたらすことになろうとも、それを執拗に求める根底には、ずるいという感覚があるのだろう。平等、平等という声に参ってしまうのは、その醜悪さの為もあるが、自身の、ずるいという感覚の乏しさにも拠るのだということに気が付いた。

 自分が辛いとか楽しいとかは分かるが、他人と較べて楽しいとか楽しくないとかが分からないので、ずるいと思おうにもどう思ったらいいかが難しいのだ。それで、

「あれってずるいよね?」

という、平等にしましょう話を持ちかけられるとしんどくなってしまう。他人が楽しそうにしていればいるほど私の辛さが増す訳ではないし(辛いものはただただ単独で辛い)、他人が大変そうにしているからといって、私が次第次第に楽になる訳でもない。それだから、ずるさを感じようがないではないか。